2012年5月12日土曜日

なぜ人を殺してはいけないのですか?


咲さんからの質問
  なぜ人を殺してはいけないのですか?
 
 スレを立てる側としては初めての僕です。
 今回、皆さんのご意見&お力がほしく思い、登場した次第です。

 それでは本題。

 タイトルの通りで、

『何故、人を殺してはいけないのですか?』

 早い話が、今書こうかと思いだした作品のテーマがこれなわけです。
 そ して各個人によって似たり寄ったり異なり逸れたりな、
 それに対する答 の共存&妥協&対決をメインに書きたいと思いました。
 しかし如何せん、僕一人の想像力では偏執しそうで不安(いや、最終的にそうすると思うんですけど)です。

 そこで、皆さんの意見&答をお聞きしたいのです。
 できれば対する意見としての、
 『何故、人を殺してもよいのか?』というのも聞きたいです。
 個人の主観や、客観的な見地による合理的な解答など、
 色々な考えを教えてもらえたら幸いです。

追記:

 数年前の話で正確さも微妙ですが、学校教育の一環で倫理の講演がなさ れた際に、
 こんなエピソードがありました。確か『国家の品格』かなん かにあった話だと思うんですけど。
 一人の生徒が挙手し、講演者に対して上記の質問をしたそうです。
 そして講演者はその質問に答えることができませんでした。

 それを受けて文科省はわざわざ『何故、人を殺してはいけないのか?」
 について合理的な理由を文書にして作らせたっていう話です。
 ちなみに『国家の品格』の著者は、そんなものには合理的な理由などな い。
 「いけないことはいけないことなのだ」――それを肯定しようとす ることがそもそもの間違いだ、
 的なことを言っていた気がします。
 僕の考えもそれに近く、主人公もその考えが主軸にあります。

 ちなみに登場するキャラで今、思いついているのは

・殺傷症候群患者(♂)&嗜血症(♀)のラブラブカップル。
 →殺人肯定派を担当。
・殺し屋の殺し屋(♀)
 →殺人者の殺人者という矛盾を担当。

 ……です。それでは。駄文長文失礼しました。
 意見、お待ちしております。

●答え●

鈴忌さんからの意見
 お久しぶりの鈴忌です。

> 『何故、人を殺してはいけないのですか?』

 白も黒と説得できるのが作家なので詭弁を弄してみてもよいのですが(苦笑)、
 せっかくなので個人的なぶっちゃけ意見を。

 回答:「自分や大事な人が殺されたくないから」

 ですね、ただ、これは「自分がされたくないことを人にしたらいけないでしょ?」という話じゃありません。
 複数の人間が集まっている社会において、ルールがなければ、
 みんな怖くて生活なんかしていけないという話です。

 社会は「人を殺してはいけない」というルールを作ることで、
 お互いの安心した生活を保障する機能を持ちます。
 そのルールを守る限りにおいて、自分もまたルールに護られるわけです。
 これが、法律における「刑� ��」の考え方です。

 「人を殺してはいけない理由」というのは鈴忌からみると、
 このルール以上でも以下でもないです。
 だから、ルールを破って殺人をした人間が刑罰で殺される、
 いわゆる「死刑制度」には別に反対しませんし、
 同じルールを共有しないコミュニティ同士が争う「戦争」で
 「勝った方が一方的に、負けた方を裁くこと」もおかしいと思ってません。

 要するに、倫理観だとか道徳観だとか、そういう話は全部後付で、
 結局は利益論というシニカルな意見です(笑)。

 なので、逆に「自分はルールに護られる必要はないから」という理由で、
 社会の庇護の外に立ち、すべての責任を自分で負う覚悟を持っているならば
 「人殺し」もありだと思い� �す。むしろ、そこまで考えてるならカッコイイです。
 もちろん、その結果、鈴忌自身が標的にされたり、
 自分の大切な人が狙われたりしたら抵抗しますけどね(笑)。

 その場合は、自分が社会の一員ならば相手を「社会の存在を脅かす敵」として
 社会を巻き込んで戦うでしょうし、自分も社会の外にいる「相手と同じアウトロー」なら、
 自分の法に則って個人的に戦うことになるのでしょう。

> 『何故、人を殺してもよいのか?』

 上の意見をベースに考えれば「社会に護られる必要がない」ならば、
 別に社会のルールを守る必要はないですよね?
 もちろん、その場合は社会から敵と見なされる危険性が多大にあるわけですが、
 それも織り込み済みで立ち向かうつもりならば、別段問題は何もないでしょう。

 本来的に「生物」というのは「争う」ものです。

 「補食」しかり、「生存競争」しかり、他者の命を奪わずには生きていけません。
 我々だって、日々食事をしてますよね? 牛も豚も鶏も命ですよ、植物だって生きてます。
 それどころか、呼吸一回で何万という微生物を肺に取り込み殺しているんです。
 
 むしろ、殺すのが自然で、殺さないのは不自然です� ��
 不自然な状態を維持するために、人間は法律というルールを作ったわけです。
(古くは共同体意識とか道徳や倫理とかも、そのルールに当たります)

 自分が立っている場所(物理的、社会的問わず)には、別の誰かが入る隙間はありません。
 だから、争って奪い取らないといけません。
 自分が生きるためには、タンパク質の摂取が必要不可欠です。
 世界は、タンパク質の奪い合いで成り立っています。どれも、本能的で自然なことです。
 
 しかし、生存本能というのもあり、危険を避けたいという思いも自然にわき出ます。
 そこで、両者に折り合いつけたのが「殺人をしてはいけない」とかに代表されるルールです。

 だから、「なぜ、人を殺してもよいか?」という 問いには
 簡単な答えが導けます。それは……

 回答:「殺傷は、生物として自然なことだから」

 『国家の品格』の著者とは真逆の意見になりますが、
 殺人は「することが自然」であって、「しないことが不自然」だと鈴忌は思います。
 そして、その「不自然な状態」を維持する必要があるからルールが世界中にあるんです。
 もし「殺人がそもそも不自然」ならば、あんな大量の法律なんていらないでしょう? そう思いませんか?

> 個人の主観や、客観的な見地による合理的な解答など、
> 色々な考えを教えてもらえたら幸いです。

 個人の主観ではありますが、一応、合理的な解答のつもりで論を展開してみました。
 さて、どうでしょうか?

 ちなみに余談ですが、鈴忌が中学生の時に道徳の授業で、以下のような心理ゲームがありました。

前提:あなたと、あなたの大事な人がいる。
設定:二人とも飢えていて、食料は簡単に手に入らない。
状況:あなたはある日、小さなパンを二つ手に入れた。
問題:大事な人の元へ帰る時に、路上で今にも死にそうなほどに飢えている人を一人発見した。

クエスチョン:あなたはどうする?

 さて、咲さんならどう答えますでしょうか?
 この心理ゲームは、一般的な解答として以下のようなものが想定されているらしいです……

1,無視する(自分と大事な人優先)
2,パンを二つともあげる(倒れてる人優先)
3,パンを一つあげる。もう一つは……
 → 大事な人にあげる(自分は途中で食べたとか言う)
 → 大事な人と分ける
 → 自分で食べる
4,あげたことにして食べてしまう。

 それぞれ、善し悪しではなく考え方の傾向というのが読みとれるらしいのですが、
 このときの鈴忌の解答は、当時の担当教師の度肝を抜いたらしいです(笑)。

 それは……

・ほっといても死ぬなら、殺すか死ぬまで待つ。
・死体も食料なのだからもって帰る。
・食料が増えて自分も大事な人も万々歳。
 (大事な人が人間を食べるのをいやがるなら、
  パンを二つともあげて自分は死体を食べる)

 心理� ��析のしようがなかったらしいです(苦笑)。

 この話を、現在の友人と「中二病だよね」と笑いながらしていたら、
 友人に「いや、それは立派なサイコパスだよ」とつっこまれました(笑)。
 確かに、鈴忌が何か新聞に乗るような殺人事件を起こしたら、
 絶対にニュースとかで放送されそうなエピソードではありますが(笑)。
 まぁ、もっとも、今でも別段間違っているとは思いませんけどね(苦笑)。
 というか、極限状態なら、普通にありだと思うんですけどねぇ……いかがでしょう?
(ヒカリゴケ事件とか、ドナー隊事件とか、etc...)

> ちなみに『国家の品格』の著者は、そんなものには合理的な理由などない。
 「いけないことはいけないことなのだ」
> ――それを肯定しようとすることがそもそもの間違いだ、 的なことを言っていた気がします。

 この話は知りませんでしたが、もし、そう言ったとすれば、それは明らかに苦し紛れですね(苦笑)。
 文章を書く人間として「ダメだからダメ」みたいな思考停止は最悪です。
 それは、物書き側の考え方じゃないですね。

 まぁ、もしかしたら「その場で説明できるほど短い話ではないから割愛した」のかもしれませんけどね。

> それを受けて文科省はわざわざ『何故、人を殺してはいけ ないのか?」について
 合理的な理由を文書にして作らせたっていう話です。

 その文書というのに興味がありますね。
 むぅ、どこかに落ちてないか探してみます……。

> 僕の考えもそれに近く、主人公もその考えが主軸にあります。

 鈴忌の勝手な意見ですが、主人公がその考え(ダメなものはダメ)なのはかまいませんが、
 作者さんまで、そんな思考停止な考え方では作品が浅くなると思いますよ。
 少なくても、鈴忌は浅いと思います。
 
 むしろ「ダメなものはダメ」ならば、それはそれで、鈴忌的な偏屈な理屈屋までを
 「あぁ、たしかにダメかも」と思わせるぐらいのパワーが欲しいところですね。

 長くなりましたが、そろそろ失礼します。
 どうぞ、頑張って下さい。

かおるさんからの意見
 こんにちは。
 
 これは、世の中の人のほぼ全員が『他人から殺されたくない』と思っているからです。

 もし、人を殺 してもぜんぜんOKという世の中になると、ちょっと他人と口論となったり、
 悪口を言っただけで、頭を銃で撃たれるかもしれません。
 すると、いつ殺されるかわからないので、みんな非常に不安になり、
 常に恐怖しながら生きることになり、まともな社会がいとめなくなるのです。
 そのため、殺人が最高の罪、人間社会のタブーとなったのです。

 戦争などは例外で、敵国を打ち倒すことが目的なので、敵兵を殺すことは正しいこととされます。

電子鼠さんからの意見
「まったくもう! やられた側の気持ちになってみなさい!」

 ……、おおよそ九割がたの日本の母が、一度は言った事のある言葉では ないでしょうか。
 自分が殺されたら困りますよね、ものすごく。
 家族が殺されたら悲しいですよね、ものすごく。
 友人が殺されたら憎いですよね、ものすごく。

 そう言うことだと思います。
 殺人は、「憲法」「法律」のない時代からあった、言うなれば「タブー 」の一つでした。
 だから、今では「法」をそれを犯したものを裁いているのだと思います。

 やられたらいやなことはするな。
 これ鉄則。

朧紅疾風さんからの意見
 自分が語ると感情論で止まらなくなるおそれがあるので短くまとめますが、
 早い話が『殺される側の身にもなってみろ』という意見です。
 最近は、某N氏作品に出てくる殺人鬼のようなキャラがあちこちに見受けられますが、
 ……うーん、何なんでしょうかねぇ。
 
 とりあえず、自分の一番大切な人がある日あっさり殺されてしまうキャラだったら、と想定してみます。
 別にどうでもいい奴なら良い、という訳ではありませんよ。
 本当は、人が一人死ぬのって周囲に予想もつかないほど大きな� ��響があります。

 本当に分かりにくい意見(?)で申し訳ないのですが、ラノベの端役が死ぬのではなく、
 身近な人が殺される事を考えてみて下さい。自分に言える事はこれが限界です。
 では失礼いたします。

月野道掛さんからの意見
 ふと思いましたが、似たような問いが『女王の教室)のドラマに出ていてちょいと驚きました。
 初めまして、咲さん。月野道掛です。

 確かに私も「殺される側の身にもなってみろ」という意見の人ですが、
 少し違うような違わないような意見を一つ。
 
 人を殺すと、大抵の人はその死体に戸惑います。
 ついさっきまで生きていたのに今はこうして動かなくなってしまっているということに恐怖を覚え、
 いつか自分も死ぬのではな いかという恐怖も無意識下で再現されるのかな、と。
 
 それと、誰だって死にたくはないけど、死んだ人は何も分からないので、
 殺人を重い罪にしたのは、遺族の復讐の意味をこめたから。だから重い罪にしたのかな、と。
 
 それに殺人が肯定されたら、いつ殺されるか分かったもんじゃないので、
 治安維持的な役割もあるんだと思いますが。

 ……微妙に的外れな意見でも、参考になれば幸いです。
 でもこういう問題って、考えようによればいくらでも考えられるのかな、と思う今日この頃。

chiiさんからの意見
 こんにちはー、創作掲示板はえらい久々になります。
 chiiと申すものです。よろしくお願いします。

 咲さんの問いについては私もいろいろ思うところは� ��りますが、
 とりあえず以前読んだ本で面白いものがありましたので、
 そちらを紹介していこうと思います。

・なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために
 (著:小浜逸郎)
 (出版社:洋泉社 新書y)

 …です。
 咲さんの疑問について、倫理学の方面から考察する一冊です。
 内容はちょっと硬めなので、難しく感じるかもしれませんが、

 殺人はなぜいけないのか、
 では、自殺なら良いのか、
 人の生命は尊いものなのか、

 このような問いに対する答えの一つを出してくれると思います。
 あくまで一つに過ぎませんが、
 もしこの問題を考えるなら、読んでみても損はないかと思います。

 では、失礼します。

卯月さんからの意見< br/> こんにちわ。夏ばて気味の卯月です。
 夏ばてもそこそこに早速本題に入りたいと思います。

・何故、人を殺してはいけないのか。

 お堅く言うなら生存権の侵害である。と言ったところでしょうか。
 あと、これはどこかで読んだのですが、人を殺すなというルール、法律を破る行為が悪い。
 要は暗黙の了解、社会が成立させるためのルールです。
 私は貴方を殺しません。だから貴方も私を殺さない。だから私は殺されません。
 ある意味当然のルールですね……。

>何故、人を殺してもいいのか。

 これは主観になりますが、建前さえあれば殺人行為というのは許容されるものだと考えます。
 社会的に許されているから。生きるために必要だから。
 前者は死刑制度や事件解決 のための犯人射殺、後者は戦場などが当てはまりますね。
 社会的にみれば、時代や場所、状況次第で殺人は許される行為だというのが私の考えです。
 個人的な観点から見れば、その人の倫理観次第かと。

 どんなに言い繕っても結局はその人が殺人を罪と感じるかどうかで、
 許す許さないも個人が決めることだと思います。

 なんか蒙昧無知な意見ですみません。
 ちなみに、私も暗殺者モドキを書いていますが、
 その人物の考え方は『標的にされる方(殺される方)が悪い』です。
 それでは、執筆頑張ってください。

南志紀さんからの意見
 ようやくプロットの入り口が固まり、喜んでいる南です。

 なぜ、人を殺してはいけないのか?
 ですね。

 結論� �後回しにするとして、
 意見の主流となっている『相手の身にもなってみろ』とありますが、南は反対です

 例えば自殺願望者は殺してもいいのか?
 殺しても誰も悲しまない人は殺してもいいのか?
 危険な厨思想ですよね。

 では、次に一般的に肯定されている殺人とはそう死刑です。
 簡単に言えば凶悪な人間は社会から抹殺せよ、です。

 すなわち、殺すに値する人間かどうかが焦点だと思います
 行為者が殺人に対して真に納得できているか?
 行為者が殺人をするに値する真の理由を持っているのか?

 感情的欲求ではなくきちんとした理由があれば殺人も肯定される場合もあるのでは?
 もちろん全肯定ではありません。

みつきさんからの意見
 咲さま� ��こんにちは。

 講演者に挙手して『何故人を殺してはいけないのか』と訊ねた生徒って、
 本気でそれを聞きたかったんでしょうかね。
 私が子供の頃にも、最近の若者は自分の頭で考えないと散々言われたものですが、
 いつの時代も同じよう(笑)。

>『何故、人を殺してはいけないのですか?』
 
 私の場合は、「それが何であれ、人のものは勝手に取ってはいけないから」、とかいう感じで、
 人を殺すことの是非というものを捉えているような感じがします。
 その人の体も、命も、その人のものですから、勝手に壊したり奪ったりしたら、
 それはイケナイコトだよなーっていうふうに。
 もしかしたら、他人と自分との境界が曖昧な人ほど、簡単に物を盗むし、簡単に人� ��殺すのかも……?
 とか、今思いました。

 で、ここから付け足しです。
 昔、とあるところで最初の人殺しがあり、その殺人犯は復讐のため被害者の遺族に殺された。
 ところが、復讐のために殺人犯を殺した遺族が、殺人犯の遺族にさらに復讐で殺され、
 その後復讐が復讐を呼んでエスカレート、男たちは常に武器を持ち戦いに駆り出され、
 女や子供はしょっちゅう焼き討ちや皆殺しの憂き目に合うことに。
 
 そんな血で血を洗う人殺し合戦が延々繰り広げられていたのですが、
 ある時から、散々それをやってきた人々はもういいかげん疲弊し、
 こんなことに何の意味があるのだろうと考え始めてしまい、結局、

 「最初にあった、たったひとつの殺人が発端だったんじゃな いか。
 こんな何十人、百人も死ぬような復讐のやり合いに、意味はない」

 と結論付けた結果、『人を殺してはいけない』という決まりごとを作って、
 それを破った殺人者は復讐により殺害されるのではなく、
 第三者に公的に法で裁かれ処刑される、という方法に変更。
 
 で、「無意味な復讐合戦になるから人殺しをしちゃダメ」になったのが、
 時代を超えて今は倫理に変わった。

 
 経験から得た、一言ではとても言い表せないことだから、
 もうとにかく「ダメなものはダメ」ってしておかないと、
 また感情的な復讐合戦から学習を始めないといけなくなっちゃって、
 今の方法にたどり着くのに時間はかかるわ無駄にたくさん人が死ぬわ、
 ほんと後の始末が� ��倒だから……。
 ってな感じかなあ、と思いました。
 付け足し終わりです。

>『何故、人を殺してもよいのか?
 それが誰かのためになるのなら、仕方ないということはあるかも。
 再犯の可能性の高い重犯罪人を死刑にするとか、尊厳死で人工呼吸器を外すとか。
 もしくは、自衛のための危険回避でやむなく殺害してしまった、とかいう場合もあるでしょうか。
 殺してくれと頼まれたから殺す……というのは、
 法的にみれば完璧にアウトですが、心情的には……うーん、やっぱり難しいかも。
 
 と、私が考えるのはそんなところです。
 それではこれにて。

Dr.ウニボンさんからの意見
 ケータイから失礼します、Dr.ウニボンです。

 まぁ、物凄� ��ぶっちゃけて言うと、「子孫繁栄という全生物の命題に反するから」だと思いますね。

 地球上の全ての生物は子孫を残すために生きていると言っても過言ではないんですが、
 同族を殺すと子孫繁栄が難しくなります。
 だからこそ同族同士の争いは大抵殺し合いにまで発展しません。
 人間にもその辺の本能があるから、同族殺しを嫌う傾向にあるんだと思います。

 んー、これだと質問の答えにはなりませんか……。
 ただ、"人殺しはいけない"のでなくて私は"人殺しは気持ち悪い・不快だ"
 という感じのほうがより真理に近いような気が……。

gloryさんからの意見
 最近このような事を自分でも考えていると、丁度このようなスレがあったので、書いてみました。

・ 殺される側の身にもなってみろ

 この意見を見て思ったのですが、殺した側の本人とその家族とその親類の立場になってみてください。
 被害者の家族や親類から恨まれるのは殺した本人一人だけならまだいいです。
 しかし、必ずしもそうとは限らないでしょう。
 それに世間様からも軽蔑の目で見られるようになるかもしれません。
 被害者は殺された側の人達だけではないのです。

 私が何を言いたいのかというと、全てを自分一人で責任とれるのかということです。


フォールズチャーチバージニア州弁護士

 それができないから、人を殺してはいけないのだと思います。
 それができるのなら殺していいと私は思います。
 殺された本人とその周囲の人たち含め、全ての人が納得して丸く収まり、
 全員がどんな形であれ心の底からハッピーエンドになれるのなら、むしろ殺してくれと言いたいですね。

 もしもこの世にそんな殺人しか存在しなくなれば、殺人を拒むような法律は無くなると思います。
 だって皆が幸せになれるのなら拒む理由がないじゃないですか。
 むしろ促す宣伝が聞こえてきそうな気がしませんか?
 日本ヒト殺し協会の。 
 N  H    K

 あまりに大袈裟なことを書いてしまいました(汗
� ��しかもglory文字ともいえるであろう、難解なこの駄文をお許しください。

 ついでにラノベ研でも紹介されている『文章王』ですが、文章だけでなく、
 こんなことまで考えさせられてしまうような本なので、
 是非読まれていない方は読まれることをすすめます!

戌子さんからの意見
 こんにちは。戌子は、「ダメなものはダメだ」という説明では納得できませんね。
 それは思考を放棄した回答だと思います。

 教育者であるうちの高校の校長先生が、咲さんと同じ話(殺人は〜)を持ってきて
 「ダメなものはダメだ」といったとき、体育館に失笑のざわめきが起こりました。
 「国家の品格」の著者にも、「そんな一般論、わざわざ本に書いてんじゃねえよ」と罵りたくなりま� ��。
 うまく説明が出来ず、質問者(挙手した生徒)への苛立ちが表れた言葉だと思います。
 学生と言うものは理論や理由付けが好きなので、教員にこういった解答をされると笑うしかないです。
 そんな一般論は聞いてないんだよ、と言う感じで。

>『何故、人を殺してはいけないのですか?』 
 さて、私なりの意見ですが。大人ぶった学生の意見ですので、適当に聞いてください(笑)。
 
 人間は群れる生き物です。
 群れる理由は、一匹では生きていけない弱い生物だからです。
 体のつくりなども、ほとんどの動物に劣っています。
 その群れ内で、全員が潜在的な敵である場合、群れを作る理由がなくなってきます。
 群れ内では安心できないから外に救いを求める。しか し外は危険がいっぱい。みたいな。
 群れ内でも、外と同じように自分を守るために多くの労力を必要とするなら、
 その群れは自滅するだけです。
 
 自己保存の本能に従って、たとえ表面上の協力関係であろうとも、
 自分の生命と子孫を残す可能性を守るために協力し合うのは自然な現象だと思います。 
 その中で起こる「殺人」は、群れの秩序を崩すものです。 
 擬似的な安心感が失われるのを防ぐために、殺人者は排斥されます。
 
 殺人がいけないことなのは、個人の利益ではなく、全体の利益の問題だと思います。
 安心感がなくなる=恐怖ですから。
 

 恐怖は全て自己の生命の危機につながると言ってもいいかも。
 社会秩序に守られていながら、その社会� ��序を破壊しようとするのは、ただのわがままです。

 また、そのような不安や不信感が満ち満ちている社会は発展が難しいです。
 殺しを禁止する社会は、誰にとっても都合がいい社会なのです。

 感情論的にいっても、自己の存在を証明できるのは他者しかいないからです。
 他者により自分の尊厳が作られているという大前提。
 人間にはこれが必要だと思います。

 それに、例え殺しが法的に認められても。早速人を殺そう、と思う人はあまりいないと思います。
 相手の安全を約束することは、イコール自分の安全の確保ですから。
 全ては自分の安全確保のためです。
 他人のことなんて、本能レベルではこれっぽっちも考えてないんじゃないですか? たぶん。
 生物にとって必要な のは「自分」「自分の子孫(生殖相手)」「自分と子孫の安全」です。
 恋愛感情だって、着飾った性欲ですよ。

 こんな実験があります。
 ある実験で、二人グループにした高校生を観察しました。 
 二人はすぐに仲良くなりました。
 次の実験で、三人グループにした高校生を観察しました。
 二人はすぐに仲良くなり、一人を排除しました。
 次の実験で、四人グループにした高校生を観察しました。
 二人ずつのグループになると思いましたか? 違います。
 三人はすぐに仲良くなり、一人を排除しました。
 さらに、三人グループの中で、二対一に分かれます。

 つまり、人間社会はこういうことです。
 そしておそらく、地球上に一人しかいない場合は自殺するんでしょう。

問・「何故、人を殺してはいけないのか」
答・殺人の肯定は、自分が殺されることの肯定でもあるから。

>『何故、人を殺してもよいのか?』 

 ええと、これは死刑などのことでしょうか。
 上記の理由から、普通の社会で殺人が肯定されることはありませんから。

 秩序を乱す者はいない方がいいですからね。
 泣いて説得して、どんなに善意に溢れた話を聞かせても、
 異常者が改心しているかなど誰にも分からないのです。というか、改心なんかしません。
 死刑反対の人たちは、もし自分の家族や愛人が強姦されたり殺されたら、
 その弁護に立つのか聞いてみたいですね。
 犯人の減刑を裁判官に願うことが出来るのか。答えはNOです。
 プライドや世間体から、 上の行為をする人はいるでしょう。
 しかし、心からそれをする人はいません。

 「コードギアス」のスザクだって、あんなに人殺しはいけないって叫んでたのに、
 最終的にはゼロを殺しにいきましたし。

 人殺しは確かにいけないことですが、どんな場面でもそれを叫ぶ人は、
 自己矛盾に気付いていないだけです。それは安全圏からの意見です。

 快楽殺人とかは、もうしょうがないですね。
 すでに違う人種ですから。
 

 人を殺しても良いのか、の答えは。最終的には感情論になりそうです。
 あんまり好きじゃないんですけどね、感情論。

 あと、こんな話もあります。
 戦場の兵士達に、「何故相手を討った」と問いかけると。
 「指揮官が命令したから」という答え� ��返ってきます。
 「やらなきゃやられるから」ではないのです。
 責任転嫁をするということは、人間は人間を殺すことが嫌なんですね。

 と、いくつかの本を思い出しながら、自分なりの考えを書いてみました。長いですが、一つの意見として。
 あと、「されど罪人は竜と踊る」は参考になるかも。
 それでは。

ユウ・カワハラさんからの意見
 こんにちは、ユウ・カワハラです。

 う〜ん、タンパク質の奪い合いとか、難しい話になっていますが、
 ちょっと、違うかなぁと思う、今日この頃です。
 確かに、生き物は生き物の命を奪うことで生きています。
 けれど、自分と同種の生き物を、食べるため以外の理由で殺す生き物って、
 人間くらいだと言われています。< /p>

 食べるために同種の生き物を殺すのも滅多にありません。
 まぁ、群のボス争いなんかで、怪我して死んじゃうこともありますが、
 あれはどちらかと言えば、事故ですし。。

 つまり、人間は高度な知性の反動として、
 恨みや妬みで仲間(同種の生き物)を殺す可能性を持ったわけです。
 だけど、何でもかんでも殺しまくっていたら、種を維持できませんから、
 その可能性を低くするために、ルールを作った。
 人を殺したらいけない、殺したら報いを受けるという。
 まぁ、そんなところじゃないですかね。

 質問への答えは、今までの方と違う回答を用意できそうにありません、すみません。
 なので、代わりと言ってはなんですが、私からの逆質問をさせていただきます。

「あなたはキノを罪人だと思いますか?」
 キノの旅の1巻を読んだ後で考えてみてください。

 私は迷いに迷って結論が出せません。
 ではでは、、

毒嶋さんからの意見
> 何故、人を殺してはいけないのですか?
私が不快だから。

> 『何故、人を殺してもよいのか?』
私がいいと思ったから。

 殺人は善悪を肯定するための儀式です。
 殺人には善も悪も無いけれど、同時に善も悪もあるんです。
 なんか矛盾してますが、万物は基本的に複数の面を持ってますから、矛盾があって当然です。
 
 そもそも我々人間が矛盾の塊なんです。理詰めで納得できる訳がありません。
 せいぜい納得したふりをして、心の衛生を保つだけです。

 それでは。

さくらさんからの意見
 これ、ものすっごく考えたのですが……冗長になるので、要約します。

> 何故、人を殺してはいけないのですか?
 
 社会(現代日本)でタブーとされているから。

 肯定されるような状況、思想が当然な世の中にあっては、
 人殺しもあり、もしくは逆に推奨、という場合もあるでしょう。
 戌子さんがおっしゃっていた「群れの内側での殺人」は……姥捨て山の話を思い出しました。
 
 全体の利益という点は賛成ですが、
 逆に言うならその個体が全体の不利益になるなら殺される可能性もある、ということで。

> 『何故、人を殺してもよいのか?』

 社会が必要悪として認めたなら。

 人殺しが全部いけないことだ、というなら死刑制度は何? 
 だからって制度を廃止して懲役何百年とか、刑務所に閉じ込めておくのにどんな意味があるの? 
 極論を言えば、正当防衛も殺人の一種。

 ただ、何かやられたらすぐに殺す、は、あまりに考えが足りなさすぎです。
 現代社会では後始末が面倒だし、もっと相手を苦しめる報復方法があるのに(黒)。

 ちょっと違うのですが、先に読んだwikiの「ベジタリアン」についての項目が、
 咲さんの質問に対するヒントになるのでは、と思いました。動物を食べない理由についてとか。

渓谷さんからの意見
 これは、大学の講義(倫理学) でもよく扱われる、最も基本にして難解な命題です。
 私もその倫理学を履修しましたが、結局直接的な理由は明かされないままでした。

 以下、教授の考えと私見を混ぜて述べさせていただきます。
 
 起源は「共同体の共通利害」です。
 無秩序に殺人が頻発していては、共同体は運営できません。

 しかし、共同体から見放される不安などが徐々に蓄積し、
 結果としてあたかも最初から先天的に「殺人禁止の良心」があったかのような感覚を得た、ということです。
 絶対的な理由がないということで「ニヒリズムではないか」と反論されそうですが……。

余無茸さんからの意見
 「人は他人に生かされてるから」と言うのが理由だと思いますよ。

 本当に大� ��なことって単純すぎて言葉で説明するのってすごく難しいと思います。
 だから子供に教えるには「いけないことはいけないことなのだ」で良いとも思っています。
 人を思いやる気持ちがあれば教わるのはそれで十分だと思います。

 偉そうなことを言ってしまいました。
 鏡をみて反省します。

1029さんからの意見
 こんばんわ。1029です。
 自分も考えました。

 殺人ってそれ自体には意味無いんじゃないのかと。
 ようはそれを観察する人間の感情によって判断されるのではないかと。

 世間一般論で普通の人が殺されたら殺した側に対して怒りを抱くと思います。
 もしこれが発覚しなければ? 殺人は闇に葬られて事実すら風化します。

 合理的な殺人ってこれ じゃないんでしょうか?
 まあ、犯罪全てに言えることなのですが。

 戦争や死刑の場合。
 戦争の場合は殺人が目的でなく敵に勝つことが目的です。
 だから対人地雷が脚を吹っ飛ばすような威力なのです。
 
 死刑の場合、世間一般論ではおそらく死刑囚は人間じゃないです。
 人間だけど、自分達とは違うとかそういった感じで。
 これらについてはとがめられる事はないでしょう。殺人ということで人を殺しているわけじゃないですから。

>『何故、人を殺してはいけないのですか?』

 なぜ犯罪を起こしていけないかが理解できていればわかると思います。
 されて嫌なことをするなということじゃないですが、けじめがつけられないのならするべきではないです。
 殺� �自体が悪いのでなく、それによって社会がどう思うかが問題だと思います。

>『何故、人を殺してもよいのか?』
 けじめがつけられるのなら、してもいいのでは?
 殺していいとかそういうことじゃなく、結局は社会と戦うわけです。
 上記のように見つからなければ全くOKですが。

 ちょっと変な文になったかもしれません。

珠奈さんからの意見
 こんにちは、咲さん。
 多分、はじめまして(違ったらごめんなさい)の珠奈です。

 私の意見も、皆さんの考え方とほぼ同じなのですが、
 あえて感情論を捨てて少しひねくれた損得的な考え方をするなら、
 殺人がいけないとされるのは、

 『誰かが誰かを殺すことで、社会の存続が大なり小なり脅か� �れる』というのが、
 あるんじゃないかと思います。

 えー、なんか、自分で言ってて何言ってんだ、コイツって感じですが、説明しますと、
 将来、その人が生きているという事で社会に与えるかもしれない影響は全く無いとはいえないですよね?
(生きていれば、飯を食べるし、買い物もするわけで……その影響が限りなくゼロに近くても『0』ではない)

 それなのに、その可能性を絶つと言う事は、社会が衰退する可能性になり、
 存続を脅かされた社会は、その罪を罰して、それが悪いことだと、その構成員に知らしめねばなりません。
(殺人を是としたら、人々の関係が、容易に殺人の加害者・被害者の関係となってしまい、
 その社会は崩壊します)

 更に言うと、社会が壊れると� �社会の構成員は衣、食、住的な問題で、生きていられなくなります。
(この辺が、『人』という字は人と人が支えあって出来ているみたいなものかな、と)

 どんな国でも殺人を否定し、それを罪とするのは、そういった国自体の存続に関係するためだ、
 という考え方もあるのかもと。
 最終的に回りまわって、自分たち皆の不利益に繋がるからダメだよ、と。

 もしかしたら、社会論みたいな感じでしょうか? 社会論自体、私は詳しく知りませんが(笑)
 それを咲さんの質問の答えとさせてもらうと同時に、

 『人を殺しても良い理由』について
 →社会に不利益しか与えない、とその社会を構成している主だった組織からの排除命令が出ているから。

 という問いに関しての私な りの答えとさせていただきます。
 これは、いわゆる大義名分ってやつですね。

 とまあ、こんな考え方もできるんじゃないかという手前勝手な意見でした。
 いろいろと説明力不足で申し訳ないです。
 長文、乱文失礼しました。

ういさんからの意見
 ひとつの意見として捉えて下さい。

 なぜ人を殺してはいけないのか、という理由は、
 人を殺してはいけない、という社会の中で育った結果、
 人殺しは悪いことだし、殺されたくもないし、
 家族が殺されたら悲しい、となるのだと私は思います。

 どのような価値観の中で育ったのか。
 それが全てだと思います。

 人を騙すのは悪いことだ、と日本人は思うかもしれませんが、
 お隣りの中国や韓国は、 騙される方が悪いとなります。
 これも育ちや環境の違いが成せる業です。

 殺人の是非を論じる時、戦争のことをあげる人がいますが、
 戦争をする時、ほとんどの場合、人は相手を人と思ってはいません。
 日本とアメリカが戦争したとき、アメリカ人は日本人のことを、黄色い猿と呼びました。
 逆に当時の日本人はアメリカ人のことを鬼畜と表現しています。
 あちらは人種差別が今も根強く残っていますが、
 白人が一番であり、黒人や黄色い人間を殺すのは罪ではない、
 という考えは、実のところ、数十年くらい前まで横行していました。

 百年ほど前、日本が国連にて「人種差別を禁止しましょう」と提案したとき、
 国連に参加している全ての白人国家はそれに賛同しなかったと� ��うのは有名な話ですし、
 今もそう思っている白人はいるかもしれません。
 なぜ、このような考えになるのかを説明すると、
 彼らが崇拝するキリスト教は、動物は人間の餌になるために、神が遣わしたものとあります。

 彼らにすれば、黒人も黄色い人間も白人の暮らしを豊かにする為に、
 神が遣わしたものであり、奴隷として搾取するのも当然の権利であり、
 それを証拠に、つい百年ほど前までの世界は、白人が非白人を奴隷とし、搾取しつづける世の中でした。

 今の戦争もそうです。イスラム教のある種の過激な人たちは、
 それ以外の神を崇拝する人間を異教徒と呼び、
 特にキリストを崇拝する白人を殺すことを最高の是と考えています。

 実のところ、人を殺すのが悪い こと、というのを
 「そんなこと当たり前だろ」と普通に言えるのは、
 今の時代の私達くらいかもしれませんよ。

 その日本人だって、武士の時代は士農工商とかいって、
 武士が下位の人間に刀を振り回して罪にならないケースがあったり、
 お国の為にと飛行機に乗って敵の軍艦に突っ込む青年もいたりしました。

 つまりは、どのように教え育てられたのか。

 私も殺人は悪いことだと思いますが、
 もし別の国、別の時代に生まれていたとしたら、
 違うことを言っていたかもしれません。

 こんなテーマを論じられるというのは
 実に恵まれた社会に生まれたんだなと思いますよ。

伊月さんからの意見
 殺人はなぜいけないか。

 では民族紛争は 何故おこるか。
 民族の対立、最初は小さないさかいだったかもしれません……。
 報復行為が行われ、活発化し、次第に本来の目的である報復の意味が薄れて紛争となる。
 脅威となるものを排除しようと動き続ける。
 あくまで私の考えです。

 殺人が容認された行き先には戦争が待ち受けていること。
 殺人が認められた場合、自らの意見を容易に認めさせる=反論させない短絡的手段となりうること。
 この一歩手前、最低限の水際で食い止めるための手段ではないでしょうか。

 今のアメリカと日本を比べてみるとわかるはずです。
 アメリカは既に銃がなければ禁殺の規律すら守れません。銃の抑制力が銃だからです。
 日本も銃に頼る時代が訪れる可能性も近いかも。

黒尻尾 の駄猫さんからの意見
 通りすがりの野良猫です。
 オイラなりの答えを残します。

 が、たぶん、今回のご質問は作中のテーマに関わる事なんですよね。
 むう。さて、なんとお答えするかな……。

 では、他の方と被らない、嫌な答え方をw

 ぶっちゃけりゃ、世の中にあるのは全て単なる物である。
 まあ、それはその通りで、人間が特別とか、命が尊いとか、それは執着故の幻想で、
 命なんざバンバン奪って我々は生き延びてる訳で、
 お茶碗一杯、パン一枚の中に、生命の可能性を秘めていた死骸がたくさん詰まっていて、
 それを毎日美味しく食べている訳で……。

 そうした他者の死骸を喰って生きている我々も、別段特別ではなく死ねば喰われる訳で、
 まあ、目� ��見える形では早々補食されずに腐敗という形で微生物に処理される訳ですが……
(勿論生きてる内から、菌やら微生物、或いは希に大型の捕食者に襲われたりもしますが)

 もっといえば、この世には実際にタブー(禁忌)なんつー都合の良い物は存在しません。
 個の範囲では失われたとか死んだとか騒いではいますが、
 もっと大きな範囲では、別段、質量が減ったり増えたりする訳ではなく、
 個の崩壊(死)によって別の個に移った(栄養になった)だけです。
 地球の温暖化だのとかも、元々エネルギーになり得る石油資源とかが、
 単にエネルギーとして変化しただけに過ぎなくて、もっと大きな視点で見れば、
 惑星上の薄皮一枚の上で起きる些細な出来事に過ぎない訳でして……。

 � ��い前振りですが、全ては自由で、人を殺しちゃ行けないなんて冗談を言っているは、
 平和な場所に生きている人間だけです。
 冗談抜きなシリアスな場所では今も正義のため、
 テロとの戦いのため、神の為に、ガンガン殺し合って、そしてそれは賞賛され続けている訳で……。

 人間が集団性を有さず、バラバラに生きる生き物なら、
 人間同士で殺し合っても誰も文句は言わず、
 むしろ、個人の何かを侵す、別な人間は敵であって殺さないと自分が危ない訳で。

 しかし、人間は集団性を持ち、社会なる物を形成して生きています。

 「アイツ気に入らないから殺す」は社会に参加せず、
 社会から遠く1人で生きていれば言って良いのですが、社会の中でそれを言い、行ってしまうと、
 いつ自分や自分に関わりのある人間の番が回ってくるか解らなくなります。

 家族内でも、学校でも、会社でも、「気に入らないから殺す」「殺しが好きだから殺す」とかがまかり通ると
 オチオチ寝ても居られず、ちょっとケンカした時に勢いで殺されてしまうかも知れない訳です。

 そうなると集団が成り立ちません。社会が機能しません。

 なので、常識とか、倫理ととか、法律とか、社会を維持するための決まりがあります。


調和町OAどこに

 そこに「人を殺してはいけない」とあるので、
 社会内で生きるならそれに従うか、上手にかわさないといけません。

 そう言えば攻殻機動隊でけだし名言があったっすね。
「社会や現状に不満があるなら自分を変えろ。それが出来ないなら目を閉じ、
 耳を塞ぎ、口を噤んで孤独に生きろ。それも出来ないなら・・・」
 まあ、最後は死んじまえかなとオイラは思ってますがw

 身も蓋もないですね。

 オイラもそう思います^^;

 まあ、でも、生理的に死を遠ざけたいとか、愛とか、理性的な物とか、
 他の方が全て言い尽くしておられるようなので、あえて毒をここに置いてゆきますw

                        ではでは

ガルバさんからの意見
 初めまして、ガルバという者です。

 では早速、『何故、人を殺してはいけないのですか?』について。
 現代の人は他人に頼らなければ生きていけません。
 何か専門的な知識を持っている人がいなければ、今の一般人は生きていけません。

 例えば、誰かが人を殺します。その殺された人が農業者の場合、農業� ��の数は一人減ります。

 もし法律という歯止めがなかったら?
 たくさんの人が大勢の人を殺し、専門的な知識を持っている人や、持つ可能性がある人が減ります。
 人間には寿命や病気があるので、それによって専門的な知識を持つ人は更に減ります。
 しかし、それを補う人がいない。

 しかも、現代の人のほとんどは、教わらなければそういう専門的なことができません。
 それを教える人が他人に殺されれば、教える人がいなくなる。
 それがどんどん日常化していけば、人は生きていけなくなります。
 
 自分が生きたいなら他人を殺すな、という考えです。

 『何故、人を殺してもよいのか?』について。
 これは「人」を「豚」など、食用の動物に置き換えると理解し やすいと思います。

 『何故、食用豚を殺してもよいのか?』
 生き残るために必要だから。もちろん豚と人では違いますが……。

 例えば、とある二人がどこかの部屋に閉じ込められ、一週間後には出してやると外の人に言われる。
 そして部屋の中には水が一人分しか置いていない。
 その水を一週間毎日決められた量を飲まなければ死ぬ、という場合。
 分けて共に死ぬよりは片方生き残る方がマシ、だと思います。

 とりあえず、僕は『何故、人を殺してはいけないのですか?』と
 『何故、人を殺してもよいのか?』に対してこう思っています。

ふうれんさんからの意見
 こんにちは、ふうれん(楓蓮)と言います。

 論理的な解釈で説明が難解なこの問題に、ド田舎の� ��校生が調子こいて論理唱えてもアレですので、
 自分なりに思ったことを書きますね。

 サバンナにライオンがいます。
(ただの例ですので、彼らの細かい社会形成は無視しますね)

 彼らは「群れ」をつくりますよね。
 何故なら単体で動くより群れで動く方が生きやすく、子孫を残しやすいからです。
 食糧だって単体では自分がバテたらその日のメシは抜きですが、
 群れを組むと、一緒に動物を追いたてればメシにありつける確率は高くなりますよね。

 群れを作った以上、その仲間らは運命共同体です。みんながいないと生きられない。
 オスのボクがいないと餌がとれない。メスのワタシがいないと絶滅してしまう……。
 そんな中で、運命共同体である仲間の一匹がいきなり、何を 血迷ったのか他の仲間に襲いかかる。
 ということは群れを作る前提の際に「あり得ない」わけです。

 彼らは「群れ」と「群れ」で争います。もちろん、「単独」と「単独」でも。
 しかし、群れの中の「単独」と「他」では争わないんですよ。

 そりゃそうでしょう。群れを形成している以上、運命共同体の仲間に襲いかかること自体、
 百害あって一利なしなんです。

 人間の場合、その群れが馬鹿みたいに大きくなっただけです。
 大きくなりすぎて、自分の群れがどこまでなのか認識できていないから、
 「単独」と「単独」で争っているような錯覚に陥ってしまう。

 だって考えても見てください。私たちは同じ「日本」という群れの中で生活しています。
 大人の人は税金を払って 、そのお金が間接的に私たちの生活に良い影響をもたらしています。
 子供だって、後の事をよーく考えると、
 首相とかになって私たちの群れを率いるリーダーになるかもしれません。
 それを、何を思ったか、同じ日本人に襲いかかるのです。
 今後その人が「群れ」に与える恩恵を踏みにじるわけです。

 だから当然、人間界でも「家族」「国家」「世界」「人類」といった群れの中で殺し合うことは、
 それを構成した瞬間から「あり得ない」ものと認識されているわけですね。

 世界家族とはよくいったものです。え? いってない?(汗) 

 ……あれ、ちょっとライオンの事話したかっただけなのに人類規模まで発展しちゃいました(・ω・`)
 いや、すいません。まとめるの� �上手でないのでここらで失礼させていただきます。

 それでは。

小豆の踊り子さんからの意見
 初めまして、小豆です。

 何故人を殺してはいけないのか、私もよく分かりません。
 
 ただ、この質問は非常にデリケートな問いを含んでいるように思います。
 下手に答えたら倫理問題です。
 「国家の品格」の方もおそらく倫理問題を恐れたのではないでしょうか。
 「いけないからいけない」では、殺人肯定派が「殺していいから殺していい」といっているようなもの。
 合理的な返答が求められるくせに、答えた内容によってはクビがアブナイ。

 しかし、古今東西、殺人を肯定する法がどこにもないことはたしかです(生贄等を含めず)。
 ハンムラビ法典に始まり現在 にいたるまで、どこの地域の有力者も認めなかった「殺人」、
 今がどんなにすさんだ世だとしても認められるはずがないというのが私の意見です。

 現に、仮に「今から日本は殺人を肯定します。気に入らない奴は殺して構いません」
 なんて法律が発布されたら、納得できますか?
 人間誰しも誰か一人くらいには気に入られてないんです。
 いつ何時誰に殺されるか分からないなんて嫌でしょう。

 心身の健康な人なら、誰も殺されたくないはずですから殺人はしないほうがいい。と思います。

 訳の分からない乱文失礼しました。

ヴァイスさんからの意見
 こんにちは〜、ヴァイスです。
 > 『何故、人を殺してはいけないのですか?』

 私が思うには、仲良く出来なくなるからだと思います。
 殺してしまった人と話したり、遊んだり、コミュニケーション出来ませんからね。
 凄く幼稚的な考えですが、みんなで仲良くするために殺す理由なんて微塵も無いと私は思います。

zhonさんからの意見
 こんにちは。

 『何故、人を殺してはいけないのですか?』
 という問いについては私も考えたことがあります。

 最終的に自分の中で最も納得した答えは 「殺す必要がないから」です。
 逆に処刑、戦争など「殺す必要がある」状況下では『人を殺しても良い』が成り立つと思います。

 乱暴な意見ですが「殺ってみればわかる」というのも意外と説得力を持 つのではないでしょうか。
 実際にやってみる人はいないでしょうから。

魏延さんからの意見
 僕は『殺人はなぜいけないのか?』『殺していい存在はあるのではないか?』
 ということがあちこちでオオマジメに議論されていることに、
 日本って国はどうなっていくのかなァと感じます。
 賛成・否定に関係なく、具体的な理由がないと納得すらできないということに……。
 や、このスレのことを言ってるのではなくて、そういう風潮について、ということです。

 個人的には、理由を求めるまでもなくダメと言う藤原氏に賛成します。
 なんたら法がどうたら、誰彼が悲しむから、社会が成立しなくなるから、とかじゃなく、ダメなものはダメ。

 私的に、人としてそ こは譲っていけないことだと思います。
 「 そんなこと考えて、どうするつもり? 」 とさえ思いますし。
 凄まじくワルなやつに復讐する、というシチュエーションは、まだ同情できますが、
 第三者が同情できるかどうかと、殺人したという事実はまた別でしょう。

「殺されてもしょうがないような悪い人間は、いっそ殺した方がいいのでは? 
 そして最近は、そういう悪い奴が多いのではないか? 」

 ……という価値観が、『デスノート』以後たびたび言われるようになりました。
 もっともらしく聞こえますし、きょうびそう思ったことがある人も多いと思うのですが、
 それがひとつの思想に昇華してしまうと、世の中は恐ろしいことになると思います。

 僕の考えは以上です。

ぽっぽさんからの意見
 こんにちわ〜、空が曇りで喜ぶぽっぽです。涼しいです。

>『何故、人を殺してはいけないのですか?』
 さて、本題になりますが、人は笑います。泣きます。怒ります。感動します。手を動かします。
 足を動かします。体を動かします。それができない人でも感情は必ずあります。
 そして、どんな人でも人それぞれの未来があります。
 さらに、人には最低� ��人はその人の死を悲しむ人間がいると信じています。

 人は死んだら何もなくなり、ただの血の詰まった袋というW物"になります。本当に何もありません・・・。
 老衰や病気、事故ならまだ許せるかもしれません。

 しかし、どうして人に他の人をただの血の詰まった袋にする権利がありましょうか。
 どうして他の人の未来を潰す権利がありましょうか。
 たぶん神様でもそんなことをする権利はないと思います。
 どんな人でも他の人の人生を終わらせる権利はありません。
 そして、殺された人の関係者は深く悲しみます。

>『何故、人を殺してもよいのか?』
 誰にも他の人の人生を終わらせる権利はありませんが、人を殺す覚悟があるのなら、
 それもとても重い覚悟がある のなら、そして、その人のこれからの人生を全て潰す覚悟があるのなら、
 誰かを悲しませる覚悟があるのなら、人を殺してもかまわないと自分自身では考えてます。

 正直なところ、考えをすべて言葉にできていません。
 というか、自分自身の文章力足らずで多少意味不な所もあるかもしれません。
 まぁ、そこらへんは感覚で掴んでください。

龍牙さんからの意見
 こんばんは。龍牙です。
 私の意見は殺人に対し肯定派で、読んでいて不快になってしまうかもしれないので、
 そういう意見を軽蔑するような場合は読まずに無視してください。

 個人的な意見ですが、私は殺人の賛否はもとより善悪の判断は条件によって様々だと思います。
 
 社会やその人物が置� ��れている環境、その行為に至るまでの経過。
 それを行う人物の人柄や職業、性格や過去など条件によって変わっていくものだと思います。
 現代では差別はしてはいけない、軽蔑に値する物ですが、
 例えば江戸時代の武士達の立場に立つと違ってきます。
 当時は身分差別は当たり前のことであり、武士にとって自らの身分は誇りであり、
 それ故に農民を見下すようになるのはある意味必然なのです。

 要するに必要なのは、主人公が人を殺すなら、
 それを読者に納得してもらえるだけの設定とストーリーだと思います。

 私の意見は以上です。もし不快になりましたら、無視してくださって結構です。それでは。

Azifさんからの意見
 何ぞ気づいたら面白そうなスレが立ってま� ��。
 と言うことで、持論を一つ展開。
 
 さて、【人を殺してはいけない】のは何故か?
 この理由は、極限的には一つだけでしょう。
 
 つまり、"社会が成り立たなくなるため"です。
 

 社会とは、複数の人間によって成り立つものです。
 そして、社会が作られるほどの複数の人間が集まるには、一つのルールが存在する必要があります。
 そのルールとは、"其処に居る人間は、自らを害する事が無い"と言うことです。
 此処でルールが適応されるのは、社会が存在しない状態から、社会が生み出される際のルールです。
 既存の社会が別に存在しているのならば、
 害されると言うことを前提条件に新しい社会が生み出されることも珍しくはありません。
 例外 では有りますが。
 
 先に述べたルールが守られないのならば、社会は成り立つことがありません。
 何時、何処で、誰が自らを害するかわからない。このような状況では、人は集団を作れないのです。
 少なくとも自分は、何時、誰が、何処で自分を殺すか分からない相手と一緒に居たいとは思いません。
 ゆえに、人を(殺)害すると言うことは、社会に置いて明確なルール違反とされ、
 行っては成らないと言われ得るのです。
 このルールを明文化したのが法律です。
 
 余談では有りますが、この理屈から言えば、
 戦争は殺人ではあっても社会に許容される出来事となります。
 
 殺人を禁ずる理由が、社会の維持のためである以上、
 社会を傷つける別社会の存在(人間)� �害するのは、
 所属する社会の維持に繋がる為に許容されるのです。

 
 
 さて、此処までで自分にとっての、"人を殺してはいけない"理由を語りました。
 よって、これ以降は"人を殺してよい"場合を語ることとします。
 
 既に述べたように、同一の社会の中で人を殺すのは、絶対にやってはいけない事です。
 正直な話、同じ社会に属する存在(人間)を殺した(殺そうとした)場合、
 その存在(人間)は一切の権利を剥奪されて、
 野生動物と同じ扱いを受けてもいいと思う程度には悪い事です。
 
 ですが、これは逆説的に言うのならば、"同一の社会"に属していないのならば、
 "人を殺してよい"と言うことでもあります。
 
 例えば、戦争。
 例え ば、こちらを殺そうとしてくる相手。

 
 これらは明確に、別の社会に属する相手でしょう。
 前者の戦争に関しては先に述べていますし、後者に関しては、自らが社会から排除されているか、
 相手が社会のルールを破って社会から抜け出したかのどちらか出なければ起こりえません。
 ルールを守らない相手は、社会によって庇護されることは無いのです。
 
 此処まで語ると、一つの疑問が生まれると思います。
 "能動的に、同一の社会の人間を殺すのは駄目なのか?"です。
 当然駄目です。もしもそれを行いたければ、
 自らは殺そうとする相手が属する社会からの全ての恩恵を殴り捨てて、
 代わりに敵意を得ることを覚悟しなくてはいけません。
 逆説、その覚悟が出来てい るのならば、社会はその行いを許容して、
 庇護の変わりに敵意を与えてくれます。
 
 ですが、例外もまた存在しています。
 最初のほうにも少しだけ語られていますが、
 "既存の社会の中に生まれた、害することを前提の社会"の存在です。
 この社会は、既に存在する社会の中に紛れ込む形で存在する社会で、
 いわゆる国家などのグローバルな社会とは異なり、個人から成り立つローカルな社会です。
 
 最近では増えてきているローカルな社会ですが、この性質は極めて独善的で、
 他の社会との繋がりが薄いことが特徴となります。
 グローバルな社会の中に紛れ込みながら、グローバルな社会がどうなろうと、
 ローカルな社会の仕組みで行動するからです。

 例えば、戦 争や自衛など以外で殺人者を庇う。
 許容するなどと言ったものは、このローカルな社会でこそ成り立つものでしょう。
 ローカルな社会には、紛れ込んでいる対象を含めたグローバルな社会や、
 他のローカルな社会の安全性を考えず、自らだけの社会の安全性を考えます。
 
 ゆえに、グローバルな社会での異物も、ローカルな社会では必要として庇護する事があるというわけです。
 良くドラマなどで語られる「君が人殺しでも良い。僕には君が必要なんだ!」などと言ったものは、
 その当人と当人の周りのみで構成されるローカルな社会の見本と言えるでしょう。

クロウドさんからの意見
 よく言われる事ですが、食事の前に何故『いただきます』と言うのか、考えられた事はありま� ��か?
 植物も動物も生きているものです。その命を頂いて自らの血肉とし活力とし、今、私たちは生きています。

 『あなたの命をいただいて生かさせてもらいます』という事ですね。

 例えば、牛は草の命を食らい、人間はその牛の命を食らう。
 結果的には数多の命を喰らっている訳ですから、無駄にできない。
 意味あるものにしなくてはならないと考えます。

 今の時代、飽食の世で、私自身も牧場に勤める身。
 とはいえ、必要以上の殺生には常に疑問があります。
 必要なものを必要な時、必要なだけとは考えないのかと。

 断っておきますが、私は博愛主義ではありませんよ。死刑賛成ですから。

 趣旨に返しますと、私利私欲、道理や意味のない殺人は、誰だって嫌で� ��ょうし、
 またそういった被害を受けるのも嫌なはず。
 自分の嫌な事は他人にしない、道徳になるのでしょう。

 殺す必要が求められたなら、私は小殺多生を旨とします。
 それが殺されるモノが喰らった命に対する礼儀だと愚考します故。

 よって、咎による死罪は、何らかの教訓を多くに与えるので認めます。

 道理なき殺人者を擁護する気はありません。
 むしろ、死刑から逃れんとする浅ましさは、今まで喰らった命の冒涜と感じます。

 結論は重複しますが、されたら嫌だからやらない。
 喰らった命を意味あるものとする為に生者正道を歩まなければならない。という事です。

 イマイチ不明瞭で趣旨に沿っているか自信のない、私見でした。

沈丁花さんからの意見
 何故、人は「人を殺してはいけない」と思うのか。
 これは僕個人の意見ですが、人は無意識に自分と同じような行動を人にも求めているものです。

 自分は人に優しくしているのだから、他の人も自分には優しくしてほしいというのと同じように。

 自分は人を殺したりはしないし、危害も加えないから自分にも危害を加えないでくれ、
 というよう求める意識があるから人は互いに殺しあうことを抑止できるのではないでしょうか。
 裏を返せば、これは相手に危害を加えれば、
 自分も傷つけられるという危機感があるからなんじゃないでしょうか

 逆に、「人を殺していい理由」ですが
 これは、やはり生存の危機に瀕した場合などでしょうか

 海難事故などに遭った時に二人の遭難 者が一つの浮き輪を見つけたとします。
 二人でつかまれば沈んで しまいますが、一人なら助かることができます。
 このときに片方の遭難者Aがもう一方の遭難者Bを突き放して浮き輪を一人で使い、
 結果としてBが死亡してもAは罪に問われません。現行の法律でもそうなっています。

Revilsさんからの意見
 Revilsと申します。興味深い話題だったので一言。

 個人的な考えですが、「殺人はいけない」というのは、
 あくまで人間が人間中心の考えをしているからであって、
 他の生物からみれば人間が死ぬことはプラスに働くこともあるでしょう。

 さらに例としては、一匹の飢えている動物が居たとして、
 その動物に人間を一人殺して与えた場合、その人は人間からみれば� ��だの狂人ですが、
 動物から見れば命の恩人なわけです。
 人間と動物が逆な場合もしかり。

 何がいいたかったのかと言うと、結局何を中心とするかで善悪は変化し、
 大半の人間は自分たちを中心に考えているのだろうということです。

 以上、何が言いたいのかわかりにくい意見でした。

かずのんさんからの意見
 どこかで、こんな話を読んだ事があります。ほぼ日だったかな?

問。何故人を殺してはいけないのか。
答。マナーに反するから。

 とてもシンプルで、深く考えるとどこまでも深い答が返ってきそうで記憶に残ってました。
 私自身は、皆さんがおっしゃるように「死にたくないから、殺さないでね」というのが大きいです。
 せっかく運良く生� ��てるんだから、運良く天寿を全うしたいものです。
 では。

飛車丸さんからの意見
 死んだ人間は決して生き返ることはない。

 小難しい理由は幾らでも付けられるけど、たったこれだけのことでしかない。
 そうは思わんかねワトソン君?

朝来さんからの意見
 これは人だけではなく全ての生命に当てはまる事ですけれど、
 殺した人、死んでしまった人(あるいは動植物)を生き返らせる事は出来ますか?
 出来ませんよね。
 生命は物じゃないんですから。
 人を殺してはいけない、無闇に殺生を行ってはいけないという事はそういう事なのだと私は思います。

 逆に人を殺しても良い理由。

1.自分の生命を優先するために止むを得ず他人を� �牲にする。
 カルネアデスの板が有名な話ですね。

2.殺意・悪意を持って他者を殺した人間を処刑する。

 旧約聖書でも『魂には魂、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き印には焼き印、
 傷には傷、殴打には殴打を与えなければならない』とあります。
 ちなみに、逆に殺意なき殺人を犯してしまった場合、
 その人は復讐されないように定められた都市に逃げ込んで保護してもらう事が許されていました。


無謀な運転は何ですか

 私の意見はこんな所です。
 参考になるといいんですけれど。

公史さんからの意見
 良いスレですね。
 人間について、考えさせられます。
 では早速、熱弁させて頂きます(オイ)
 心臓が弱い人は見ない方がいいです。

 普通の人間は、死を恐れます。何故か?
 それは「結果」を知っているからです。
 自分が殺されれば死ぬ、そういう定義を立ててしまうのが人間なんです。

 でも、それだけではあいまいだったりします。
 それは「死」とは何か?ということ。

 残念ながら、人間は体験しなければ、どんなに知ってもわからない生物なのです。
 その例が、子供を産む女性を機械だと言ってし� �う人(少し前の事ですが)が参考になるかと。
 俺にもよくわからないです、が。

 結構前の話ですが、俺の親戚のお婆さんも、かなり年の方でした。

 しかしその方、風呂場で亡くなったらしいです。
 それで突如、葬式に行くことになりました。

 普通、葬式の際は死人を火葬しますが、その後は絶望の恐怖でした。
 
 お婆さんの骨を壺に入れる作業でした。
 
 人が死んだらこうなる。
 自分も死んだらきっとこうなる。
 そして、親族から悲しい目で自分を見られる。

 こうなりたくないという被害妄想から、この定義を立てるのではないかと思います。

石野 叡洸さんからの意見
 他県に日帰りで吹奏楽コンクールを見に行ったら、
 バスの中に財布を忘れてorzな状態になったアキヒロです。
 ……ぁ、無事財布は見つかりましたけどね。なんか無駄に疲れた気分です。

> 『何故、人を殺してはいけないのですか?』
 本題ですが、感情論抜きな理由だけを書くことにします。

その一・法律で禁止されているから。
 ……なんか、この一文で基本OKな気もするのですが(笑)、一応説明を。

 我々人類は社会を作っています。社会では人類の代表者が政治を行い、さまざまな法律を作っています。
 我々の代表者は人類が選び定めた人間なので、
 彼らが作ったルールとはつまり、人類が作ったルールということになります。

 当然、人類が作ったルールを人類が破って良い筈はありません。
 ついでに、当然法律に法った殺人(死刑、戦争、正当防衛etc)なら、
 やって良い事も自明の理かと思います。

 
 その二・人類という生命の種にとって不利益� ��から。

 とある肉食動物がお腹が空いてるわけでもないのにいきなり仲間同士で殺し合いを始めた、
 という状況を想像してみて下さい。

 この状況、どう見ても不利益極まりない状態ですよね。
 食物連鎖上必要ない、しかも天敵を滅するとかいうわけでもない同種同士の殺し合いです。
 種の存続が生命の原則なわけですから、基本的に同種の生命体を殺す事はタブー中のタブーなんです。
(ライオンとかは、自分が群れのボスになると、
 自己の遺伝子のみを遺すために他のオスの子供を殺したり、という例外はありますが)。

 これを人間に当てはめてみましょう。
 人間が人間を殺す。それで腹が満たされるわけでもないのに、殺す。
 得るものはなく、種の一片を失ってしまう。

 不利益です。不利益の極みです。これ以上人類にとっての不利益が他にあろうかってくらいです。

 人殺しは人類にとって不利益だ。だから、人を殺してはいけない。
 ……これ、割と分かりやすいのではないかなと。

 まぁやっぱり、人類にとって有益な殺人(例えば殺人犯を死刑にすることで、これ以上の犠牲を防ぐ)は、
 やっていいわけですね。

 以上、課題の山のせいで憂鬱になりちょっと死にたくなってきたアキヒロの意見でした(苦笑)

mage-髷さんからの意見
 今日は、髷です。
 この話題に関しては小難しい性格の高校生としては、当然のことによく考える話題ですのでいくつか。

 一つはそうですね、先ず何処かで読んだ話からですが、愛故に出はなくて、法律で決� �っているからです。
 
 例えば、ここに男がいるとします。
 その男は天涯孤独で誰からも愛されず、必要とされず、そんな男です。
 ではこの男を殺しても良いでしょうか?
 
 ここで、はい勿論です、と答えられるひとはそう沢山はいないと思います。
 つまり愛とかそう言うモノは関係していない、だそうです。
 でもよく考えるとそう言う、愛とか必要とされていること以外の理由ならば、
 別に法律で決まってなくてもいけないことになりますよね?

 次に、これも一般的でありふれて、まあそんな物か、と思うような答えですが、
 自分を殺されたくないからと言うモノがあります。これについては其所まで説明は不用ですね。
 沢山のかたが述べられていますから。
 つま� �は、私はアナタを殺さないからアナタは私を殺さないでくださいね、と言う約束です。

 とりあえず、二つとも何処かの本から借りた考えです。
 ここからは自分で考えたモノなので支離滅裂になるかも知れませんが、ご容赦ください。
 
 まず、多少意味がずれますが、少し問い方を変えさせて貰います。
 即ち、何故人を殺さないのか。これならば答えにたどり着いたことがあります。

 殺したくないからです。と言うか、殺して後悔したくないからです。

 人を殺すことは行動それ自体は其所まで難しいとは思いません。
 包丁なり何なりで心臓なり何なりを刺せば死にます。
 試したことはないのでおそらくではありますが。
 例えばそのとき彼、或いは彼女が自分にとって大切 な人だと気が付いたらどうでしょう。
 でも、殺して生き返らせることは出来ません。
 どんなに後悔しても、包丁を抜いて片付けても決して彼、或いは彼女が生き返ることはありません。
 
 勿論そんな例は極端です。大切な人ならば殺したいとはまあだいたい思いません。
 ただ、髪の毛の例を出すまでもなく、大切なモノは失ってから気が付くモノです。
 だから、人を殺さない、人を殺してはいけないとなったのではないでしょうか。

 そう、そろそろ筆を置こうとも考えた頃にもう一つ思い出しました。
 法律云々の話にも似ているのですが、そう教えられているからではないかと言うことです。
 つまり、人間が物心付く頃にはもう人を殺してはいけないと何処かで分かっています。
 そ れは、例えば絵本なり、ニュースなり、
 親の話なりで人を殺すのはいけないことだと知っているからではないでしょうか。

 この考えに至ったのは確か戦時中の思想について考えた頃でしょうか。
 当時、日本では国のために死ぬことが、或いは人を殺すことが美徳とされました。
 今ではそれは間違えだったと言われています。
 そうですね、それは少し話が大きくなるのでもう少し近い話をしましょう。

 例えば、体罰というモノがあります。最近はこれは悪いことだとされています。
 その風潮のお陰で、僕は体罰を受けたことはありません。
 しかし数年前か、十数年前か数十年前かは知りませんが、体罰をよしとしていた時代もあります。
 それが正しいとは言いませんでも、それは自分が 体罰を受けていないからであって、
 当事者にとってはそれはよいことだったのかも知れません、何故ならそう教えられていたから。

 このようにどう教えられたかによって、一つのことをよしとするか否とするかは替わります。
 
 或いはそれは特定のことにしか当てはまらないモノなのかも知れないですが。
 さて、その考え方で行きますと殺人がよいことだと教えられて、
 その他の情報がないならば殺人がよいことだと考えるようになるかも知れません。
 何処かの犯罪小説を思い出しますが。

 まあ、そう簡単には殺人がよいことだと教えられることはありません。
 だから人を殺してはいけないとなっているのかも知れません。
 もしかしたら元々生物として何らかの形で同類 を殺すのはいけないことだと、
 プログラムされているのかも知れません。
 もしかしたら外界の情報を一切遮断して子供を育てれば、
 そのプログラムされているモノを調べられるかも知れません。
 実際は発狂してしまうそうですが。

 ちなみに人を殺しても良い状況とはよくよく状況を吟味して、
 その人を殺してその労力、例えばその処理や、遺族からの復讐、
 それに少なくとも自分の命が奪われる罰、がその人を殺して自分が得るモノ、
 或いはその人を殺さずに自分が失うモノが大きいならば殺してしまうのではないかと思います。
 
 以上、青臭くも汗くさい鼻をかむにも役に立たない読みにくくて長いだけの意見ですが、
 参考になれば嬉しいです。

別府さんからの意 見
 他の方とは違った角度から意見を述べさせてもらいます。

 「本能」があるからです。

 昔、週刊少年マガジンで「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」という本が漫画化して、
 掲載されたことがあり、その時に読んだ話ですが、原作者のネルソン氏はベトナム戦争の時、
 最初の戦闘で銃を撃つ事ができず、その後の戦闘で初めて相手のベトナム兵を殺した時には、
 激しく嘔吐をしたそうです。

 人はやはり同じ人を殺す事に本能的な嫌悪感があり、
 逆に殺人を肯定する様な発言は生理的に拒否される様です。

 近親相姦や人食いもこれに当てはまります。
 親子だろうが兄弟だろうが姉妹だろうが、
 当人同士が愛し合っていればそれでいいじゃ� ��いかで済ませられる人は殆どいません。
(最近の漫画やラノベではこれが通用しなくなっていますけど)

 人食いだって、人を殺して食うのではなく自然死した人を食うのなら、
 火葬等の手間も省けるし必要な栄養が摂取できて合理的な無駄のない方法で一石二鳥です。
 しかし、この文章を読んで不快に思う方は沢山おられるでしょう。
 それが本能的な嫌悪だと思います。
 
 人が殺人を犯す時に考えられる理由は、
1 本能が壊れている
 
(快楽殺人者、または現実感覚が希薄である、戦争や繰り返し行う殺人により本能が薄れていく、
  自他への生の欲求が薄い場合等)

2 殺人を忌避する本能以上の本能や欲求が存在する
 (殺したい程憎い、殺す事によって金が手に入る、� ��急避難、正当防衛等)

3 社会的要請で本能を押さえつけなければいけない、
  或いはそれを理由にして正当化、責任転嫁ができる
 (戦争、死刑の執行等)

4 本能が働かない、或いは麻痺するような仕組みがある
(殺人の対象との物理的、感覚的な距離、遠く離れたところから銃で撃つ、
 核ミサイルのスイッチ等のように殺しても相手が直接見えない武器を使用する等)

 といったところです。いくつか重なる場合もあります。
 また、人を殺してもいい状況というのは戦争、正当防衛、緊急避難、死刑執行等があります。
 いずれも国家が定めた許される殺人です。
 一人殺せば殺人で、百万人殺せば英雄ですとは故チャップリン氏の名言です。

 ただ、戦争を正当化する政治家� �も自身は兵役を拒否した過去があったり、
 実際に戦争で人を殺した経験がない人も多く、
 死刑賛成論者も自身がその仕事につくことは嫌がる場合も多いと思います。

 ただ、本能だからそれが正しいとも言い切れないのが人間の矛盾したところで、
 同性婚も人が本能的に嫌悪することですが、法的に認められている国も沢山ありますし、
 障害者への差別等も許されるものではありません。
 本能と理性が一致した場合、或いは理性が本能を押さえつけている場合に許される事柄や、
 許されない事柄が生まれるのだと思います。

一色カラスさんからの意見
 人間の行動パターンは基本的にはサルに毛が生えたようなものです。
 チンパンジーやニホンザルなどの類人猿の一部には� �深刻な飢餓などの生存に直結した理由も無しに
 「階級争い」とかいう他の社会性動物にはなかなか見られない珍しい理由で、
 同種同士の争いをするという性質を持っている種がありますが、これには人間も例外ではありません。

 土台、人間は同種同士の殺し合いをやる生物なのです。

 同種同士で深刻な意味もなく真剣勝負の殺し合いをするという性質は、
 ヒトも含む類人猿に割と広く見られる習性で

 「同種同士で殺し合うのは人間だけだ」
 という言葉をたまに見かけますが、アレは嘘っぱちです。
 第一、必要に迫られればほとんど大抵の肉食動物が共食いをやります。

 ただし、類人猿は大型肉食獣などとは異なり「樹上採集生活」を行っています。
 殺傷能 力の高さで生き延びる方面の進化はあまりしていないので
 身体の頑健さに比して、攻撃力の方はさほど高くありません。
 故に、どれだけ本気を出した「決闘」をやっても
 対戦相手を簡単に死に至らしめられるほどの攻撃力がありません。
 もちろん、負けちゃイヤなので殺す気ではやるでしょうが、
 結果としては、敗者あるいは双方が死に至る確立は低いのです。

 しかし、ご存知人類は道具を用いることによって
 大型肉食獣もビックリの絶大な攻撃力を手に入れました。
 反面、樹上生活を止めてしまった影響か、その身体はだいぶん脆弱なものになってしまいましたが、
 しかしそれでも、その長距離移動能力と、何でも食べられる雑食性に加えて、
 寒暖両面に適応できて、水中を泳 ぐ事も割とできる汎用性を持って、etc...
 なボディは生態学的な機能美としての傑作であることに疑いの余地は無いでしょう。
 そのために原始人たちは厳しい野生の生存競争を勝ち抜き、
 氷河期から温暖な気候へ変動しても生き抜いて、
 生息域と個体数を圧倒的に拡大することができたのです、が。

 文明の進化と武具の進化につれて、ちょっと攻撃力が大きくなりすぎちゃった。
 あと、「天敵がロクにいない」っていうのも生物としてかなりの問題。
 人類は元々、大型肉食獣の脅威に怯えながら生活するのがデフォルトの生き物でしたから。

 社会的な集団生活を行う上に(例:社会的動物)
 攻撃力 > 防御力 のパラメータを持っていて(例:肉食獣)
 お互いに殺し合う習性(� ��:類人猿)
 天敵がいないので生きるのに余裕しゃくしゃく(例:有袋類)
 の四連コンボは、生物種としてなかなかに致命的な欠陥品です。
 放っておけば間違いなく地球上から消え去ることでしょう。

 しかし、幸いにも人間には、空で海で最高の頭脳を持つカラスやシャチをも、
 さらに遥か凌駕する高度な知能があり、何よりも「理性」があります。

 人類は人類が後天的に発現した不具合により滅びるのを防ぐため、
 法律やら倫理やらの概念を修正プログラミングとしてこしらえました。

 人を殺してはいけない理由、という問いに対する私なりの答えはこんなもんでいかがでしょうか。
 もし「自殺が何故いけないのか?」という問いがあったとしたら、
 それに対す� �回答も似たようなものになるんでしょうね。

グレー・デ・ルイスさんからの意見
 こんにちは。
 まず、私なりの見解を。
 まず、『殺す』という行為の定義ですが、これがまず私の中ではかなり違います、
 ほかの人に比べると相当ぶっ飛んでます。

 私にとっての『殺す』は、体を『殺す』ことでなく心を『殺す』ことです。
 身体的な意味だけでの『生存』は食物の科学エネルギーを消費してしまうので、
 むしろマイナスだと思います。
 まして、人間は食物連鎖の頂点に立っているので、
 生きている事によって栄養を蓄えて他の生き物に食べてもらうという事がまずめったにありません。
 人間が生きていて意味があるのは心があるからです。

 親が医者だから臓器� �植賛成ってのもありますが、
 たとえ脳死や植物状態じゃなくとも心が死んでいる人はたくさんいます。
 自分の意思を持たず、『社会』『正義』にのみしたがって生きる人間です。

 私は『社会』『正義』というものの存在自体に異議を唱えます。
 物質として存在しないからです。

 一応脳内の伝達物質として存在する『愛』や『勇気』の存在は認めますが。
 ただ社会が押し付ける正義を自分なりに噛み砕いて考えず、
 そのまま受け入れる人間が私は大嫌いです。
 小さい頃からガリレオ・ガリレイを尊敬しているので、
 社会が『太陽は地球の周りを回っている』といったら、
 自分で何も考えずにそれを信じ込む大昔の人々に対する嫌悪感に起因してると思います。

 ただ、自分� �噛み砕いてみてどうしても納得できなかった場合、
 社会の押し付ける正義を心の生きている人間は守りません。

 その結果、心の死んでいる人間に迫害を受け、心の生きている人間の心が死んでしまう場合があります。
 私はそういう殺人は絶対に許せません。

 では、心の死んでいる人間は殺していいのかというと、そうではありません。
 心の死んでいる人間でも、きちんと筋道立てて心の生きている人間の論理を説明すれば、
 解かってくれる場合があるからです。
 
 大体の場合話の途中で「は?お前何言ってんだし!」で終了ですが、
 そのうち思いなおしてくれることもあるでしょう。

 逆に、より多くの人の心を助けるための殺人なら私は許容します。
 具体例は思い浮かび� �せんが。

 あと、殺しの禁止の理由が『法律で禁止されているから』とおっしゃる方が多いようですが、
 法律で禁止されていても、その責任を取れるなら殺してもいいと思います。
 ソクラテスがアテネの青年を惑わす者と言われて死刑宣告を受けた時、
 『ポリスの市民はポリスの法に従わなくてはならない』と
 みずから毒を飲んで死んだと言う話は、
 『法律は守らなくてはならない』と言う意味の逸話として語られていますが、
 私は寧ろソクラテスは死刑を宣告されるまでアテネの青年に智恵を説くことをやめなかった事から、
 『法律は行為を罰する事はできてもその行為を禁じる事は出来ない』
 という逸話に感じました。

如月蒼月さんからの意見
 終わった話題です ね。
 だから、ある説を書きましょう

 ダーウィンの進化論という物があります。
 生物は複数の遺伝子を持ち、環境に適応した遺伝子の持ち主が生き残る。
 そして、その遺伝子を持つ者が多くなる事で進化する。

 過去に仲間を殺したいと思った生物もいたでしょう。そういう遺伝子を持った方です。
 しかし、そう言った種族、遺伝子を持った者は生き残れませんでした。
 当然ですね、仲間を殺す生物が厳しい自然環境の中生き残れる可能性は低いでしょうから。

 現在生き残っている種族は仲間を殺したくないと思う遺伝子が備わっている。
 だから生き残っていられる。また、それに反する遺伝子の持ち主は自然環境の中淘汰される。
(人間の場合法律でも良いですよ)
 それ故に、� ��族を殺してはいけない。(殺さない) 何故なら、種族として生き抜くことが出来ないから。

 ま、受け売りですがこんな説がありますよ。
 自分は結構信じてます。

世羅 悠一郎さんからの意見
 もう終ってしまった話題ですが。
 数年前の軍事に関するメールマガジンで興味深い文章を見つけ、
 それを覚えていたので書き記してみます。

 自衛隊か、米国か、欧州か。
 あるいはその全てなのか。
 メールマガジンを削除してしまったので、いつ頃の記事だったかは覚えていないのですが。

 職業として人を殺す事を要求される軍人。
 彼らは躊躇わずに人を殺せると、結構多くの方がお思いなのかも知れませんが。
 
 実は、現代では軍を構成する兵員の7割が、< br/> 例え命令であっても銃の引き金を引く事を躊躇うのだそうです。
 ……勿論、躊躇った事と引き金を引いた事は全くの別問題なのですが。

 過去ではそうでなかったという話なので、現実はそういう方向に傾いてるのかも知れませんね。
 以上、資料として参考までに。

 それでは失礼致します。

亜留間 次郎さんからの意見
>殺しの禁止の理由が『法律で禁止されているから』

 皆さんがこれを理由に挙げていますが、とんでもない間違いですよ。
 日本を含め欧米先進主要国の何処の法律にも
 殺人禁止が明文化されている国はありません。

 どこでも、殺人罪は厳罰を持って処罰すると書いてあるだけです。

 なぜ殺人禁止を憲法で明文化したり� ��ないのか?
 それは正当防衛など許される殺人も有り得るからです。

 憲法で殺人を禁止してしまうと、正当防衛すら出来なくなって
 「人を殺すぐらいなら、自分が殺されなさい」という倫理観を強制することになります。
 これは生存権の一部否定という他の憲法の条文との矛盾もはらみます。

 人類における殺人禁止の最も原始的な形態は
 「私は貴方を殺さないと約束します、だから貴方も私を殺さないと約束してください」
 こんな約束を交し合った人間の集団の形成ではないかと思います。
 だから、この場合には約束していない相手は殺してもOKとなります。
 なので、他所の村を襲って虐殺略奪はOKとなります。

 ここで、「私の村は貴方の村の人たちを殺さない� �約束します」
 という約束が出来るとだんだんと殺せない範囲が拡大していきます。
 
 こうやって拡大していった結果として、
 実質上、殺人可能な相手がいなくなったのが近代文明社会です。


暇人Zさんからの意見
 なぜ、人が人を殺してはいけないのか?
 それは自分の周りの人が殺されたときのことを考えると理由になりそうな気がします。
 世の中にはそんなやついねぇよ、とか言う人もいそうですが。

 あと、その人が人を殺したという事実に耐えられるか、も大きいと思います。
 好きな相手を殺したとかそういうのだと気がおかしくなりそうですしね。
 ただ、これも人間を物のように感じているとか、狩りの相手と同じ風に感じていれば該当しません。

 なぜいけないのか、とか聞かれたら、自分が(自分や自分に親しい人が)殺されるのが嫌だから、
 と答えるのがいいように私は思います。
 感情の問題なわけですけど� ��少なくとも大半の人はそうであると思っています。
 違うでしょうか?

 人に限らず犬とか猫のようなペットにもいえることでしょう。
 ですが、牛とか豚とかの肉は平気で食べれます。
 やっぱり関係のない食べ物でしかないから、そういう殺しには多くの人は何も思わないのでしょうね。
 殺してはいけないのか、はこういうあたりも考えると面白そうです。

千歳さんからの意見
 終わった話題ですが……何となく思った事を。
 私は人を殺すのが一概にいけないことだとは思っていません。
 皆さんがおっしゃるように、正当防衛など、色々なケースがあると思います。

 ただ、殺人はとりかえしがつきません。
 ほかのことならいざ知らず、殺してしまった事実は償えません 。二度と。絶対に。
 だって、殺された人は生き返ることができないのですから。
 刑務所に入ろうが、死刑になろうが、償えません。改心しても、自殺しても、償えません。

 社会的に償える事はあるかもしれません。(心を入れ替えて善行をつみまくるとか)
 でも、死んでしまった本人に償いをするのは不可能です。
 そういうことだと思います。

電波ネコ(仮)さんからの意見
 はじめまして、電波ネコ(仮)と申します。「(仮)」までが名前です。

「何故人を殺してはいけないか?」

 という問いに対しての私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。
 まず第一の理由として

「人殺しは愉しい」

 が挙げられるのではないでしょうか?
 これだけ書� ��と単なる異常者だと思われてしまいそうなので少しばかり説明させていただきます。

 古くはローマ帝国の時代から「人殺し」は法で禁じられる一方で、
 娯楽として大衆に受け入れられてきました。
 現代においても「大河ドラマ」では合戦シーンの多い戦国時代が舞台のものの方が、
 政略・謀略中心の江戸時代のものよりも一般に視聴率が高い、と聞きます。
 極論すれば「合戦シーン」=「人殺しのシーン」です。

 また時代劇においても「殺陣」というのはかなり重要な要素になります。
 並み居る悪漢どもをバッサバッサと斬り捨てて……
 というのは時代劇の典型の一つといってよいかと思います。
 こうした演出は時代劇に限らずアクション映画などにもみられます。マンガやアニメ� ��おいても同様。

 これらの事実からみて、誰しも人間には大なり小なり、
 人殺しを嗜好する部分があるのだといってよいでしょう。

 次に趣味嗜好以外の観点から「殺人」について考えてみます。

 社会生活を営む上で、他人と利害や意見が衝突することは実によくあることです。
 このとき、邪魔な人間を排除する最も手っ取り早い手段の一つとして「殺人」を挙げることができます。
 相手が死んでしまえば利害も意見も衝突しようがありません。
 みなさんも人生の中で「できることならこいつを殺してやりたい」と思ったことは、
 一度や二度はあるのではないでしょうか?

 以上「殺人」に関する二つの要素を整理します。

1:人間は「殺人」を嗜好する
2: 邪魔者を排除する効果的な手段の一つが「殺人」

 社会というシステムには「集まった人間がその能力と適正に基づいて役割を分担することで、
 ひとりでは到底不可能な量の利益を生み出す」という機能があります。
 生み出された利益は規定に基づいて分配されることになります。

 莫大な利益を前にした自然な感情として

 「もっと欲しい」「もっともっと欲しい」「全部欲しい」

 と思う人間は少なくないはずです。ここに利害の衝突が発生します。
 このとき「殺人」が無制限に容認されている、
 あるいは奨励されていたとしたらさぞや悲惨なことになるでしょう。
 協力と役割分担によって成立するはずの「社会」は崩壊します。
 「社会」というシステムの恩恵にあずかるた� �には「我慢」することを覚えなければならないのです。

 この「我慢」に罰則を設け、成文化したものが即ち「法律」です。

 基本的に「法律」は禁止されていないとついついやってしまうかもしれないような、
 少なくとも本能的にはそうした欲求が存在するはずの「楽しいこと」を禁じます。

 「窃盗」「暴力」「強姦」「詐欺」「横領」……そして「殺人」

 「人殺し」は愉しいのです。
 愉しくて、かつ場合によっては障害を排除するための効果的な手段にもなりえる。
 しかし同時に「人殺し」を容認してしまえば「社会」が成り立たない。
 その証拠として多くの法律では「社会の敵」に限っては「殺しても良い」とされています。

 「戦争相手」「異教徒」「重犯罪者」

  などがそれです。
 このように「殺人」を禁止し、そして「殺しても良い」相手を明示することは、
 社会システムを維持する上で極めて重要な要件となるわけです。

 「何故人を殺してはいけないのか?」

 という問いに対する私なりの返答です。
 ここに私が書き込んだことは「ヒューマニズム」の観点から、
 様々な批判・反論を受けるであろうことは十分承知の上です。
 しかしそれでも「飾らず」「偽らず」に考えた一つの意見として、
 以上のような見解があるのだということをご理解いただけますよう何卒よろしくお願いいたします。

パンダマンさんからの意見
 こんにちわ初めまして。
 なんで人を殺してはいけないのかとの質問を読ませてもらいました。大変勉強� �なりました。
 
 そうですね。作者がそのキャラクターをどういうキャラにしたいか、によるんじゃないんでしょうか。
 【殺す】行為を否定するキャラならそれを一貫させればいいでしょうし。
 そう考えると『駄目のモノは駄目』という考えも、強ち間違っちゃいないのではないでしょうか。
 
 それを幼少時に刷り込まれた子供は、理屈抜きでその事に嫌悪感を覚えると思います。
 答えが先に立って、殆どの理論は後付です、きっと。

 これは確かに『思考の停止』かもしれません。
 答えが先にあって、その事を納得するために考えるならば。
 まあ【駄目なものは駄目だから】じゃ、周りが納得しないと言うのなら、
 物語の中に色々無理難題を押しつけるストーリーを書� �て、
 キャラクターにぶつけてるのがいいと思います。

 その時にそのキャラクターならどうする、というのがストーリーの作り方でしょうし、
 キャラをどれだけ自分の中で確立できているかにも繋がるでしょう。
 理屈で『殺し』を納得させる相手が出てきた時、
 納得させられるようなキャラ設定ならもう少し色を加えるべきでしょうし。
 
 理論、理屈をくっつけたって、それで全て納得できるほど、人間は便利な生き物じゃないですよ。
 人それぞれの生き方があるんですから。
 作者が『人殺しを良しと思わないキャラ』を作りたい時に、
 『人殺しを納得させる理屈』なんて耳に届くでしょうか。
 理屈に理屈のぶつけ合いをして、結局納得の出来ないまま終りそうな気がします。
 紆余曲折しても、状況や理屈で受容できるのは架空の登場人物たちだけでしょう、きっと。
 
 だから作者が、キャラクターを正義のヒーローにしたいなら、
 今まで殺しをなんとも思っていなかった人物がある事をきっかけに、
 殺しを『悪』だと思う事も、ストーリー次第では全然構わないと思います。その逆も然り。
 
 けれどこの質問はキャラ造り用じゃないですよね・・・。
 大衆の常識をそのまま付属させたキャラクターにも魅力はあるでしょうが、
 とても主人公にはなれないように思えますし。
 長々と駄文を書き連ねちゃいました。それに、質問の意味を考えたら、
 もしかしてこういう答えを期待していたわけではないのかもしれませんね。

 何故人を殺してはいけな� �かですか・・・私個人の意見としては、それを『悪』だと思っているからです。
 ただこの考えはきっと、必ずしも最重要で無いです。

 自分に、家族に手を出す者がいた時、『殺しはいけない』という理屈は追いやられ、
 『敵を排除しなければいけない』を優先するでしょう。
 この時、『殺す』という事の悪性は考えていません。

 ただ目の前の障害を無くす為に、手っ取り早い方法を取るよう体が動くだけです。
 戦争だってそういうものでしょ。
 
 逆に人殺しを良しと思うならば、それは喜悦のためか、憤怒のためか。私にはよくわかりません。
 ただ、こっちも例えを出すなら、蚊やハエを殺すのは、ウザくて腹が立つからであり、
 その小さな体に命を見出していないからで� �。ゴキブリや百足もそんな感じです。
 それにそれらには『敵意』が無くとも、私にとっては『敵』ですから。
 彼等を殺す事に『罪悪感』はありません。潰しますよ、そりゃ。
 まあ、こっちも結局理屈付けなんですけどね。
 う〜ん、キャラ作りに役立ってほしいです。


松野一志さんからの意見
 どうも初めまして、現在絶賛スランプ中の松野です。
 ちょっと気になる話なのでお邪魔させてもらおうと思います。

 まず、「いけない事はいけないんだ」という意見。
 僕は、これで納得出来るならそれが一番いいんだと思います。
 そうでない人には理屈を説く必要がありますが、そんなのは次善策に過ぎないですよ。
 さて、ではなぜそう言えるのか。
 こんな意見があります。

 「人を殺してはいけない、というのが論理ではなく、倫理の問題だから」という物です。

 確かギリシャ哲学だったと思いますが、論理と倫理は反対語の関係にありました。
 つまり倫理の領域の話に論理を持ち込む事自体、筋違いだと言える訳です。

� �とまぁ、偉そうに言ってますが実はこれ、まるっきり塾の授業の受け売りなんですよね。
 少なくとも、学問上はこう説明出来るそうです。
 後、先生も「理屈で言ったらそりゃいいに決まってるよ」とか言ってました。
 まぁ参考程度に。

 で、こっからが僕の意見です。自分なりに考えてみました。
 主義主張に過ぎないような気がするので、
 「なぜ人を殺してはいけないのか」というよりは「なぜ人を殺したくないのか」ですね。

 まず、考えてみてください。目の前に死刑囚が運ばれてきて、拳銃を渡され
 「この人を殺して下さい」と言われたら、あなたは殺せますか?
 少なくとも僕は無理です。多分、人殺し肯定派の人も同じだと思います。
 
 人は本能的に殺人を忌避す� ��物なんです。
 
 実際、日本の死刑は電気椅子ですが、執行人は一人殺すのに五人使われるそうです。
 全員にスイッチが渡され、五人一斉に押して誰が本物のスイッチを押したか分からないようにします。
 では、なぜそれほどまでに人は人を殺すのを嫌がるのか。
 
 僕は「自分の命が大切だから」だと思います。
 
 これは「殺されたくない」とか以前の問題です。
 個人的な話にはなりますが、僕は自己肯定出来る理由の大部分に
 「自分で創り上げてきた自分だから」という物を上げています。
 ですが、そんな僕でも「自分が命ある存在だから」というのは、
 自分の価値の根底にあるような気がするんです。
 それはもしかしたら、人に生存本能という物が備わっ� ��いるからなのかも知れません。

 人を殺すという事は「命そのものの価値」を自らの行為を持って否定する事のように思います。
 その時、自分の「命」の価値も貶められてしまうような気がするんじゃないでしょうか?

 もちろん僕は人を殺した事なんてありません。でもそれが、想像しただけで痛いんです。
 完全無欠の感情論ですが、僕が人を殺したくない理由はこんな所ですね。


佐々やさんからの意見
 非常に無責任ではありますが、「殺すという行為に善も悪も存在しない」と私は考えます。

 そして、殺す対象が人である場合にしても、それは同じことであり、
 他の生命体である場合にしてもまた、同じことです。

 少し話は変わりますが、この世には「� �為」というものが存在し、
 「殺す」もまた行為の一つとして存在しています。
 そして、行為にはその行為を起こす原因となる部分と、その結果の部分とがあり、
 それは行為の方向性を示すものとなっています。
 
 そして、行為を起こす原因となる部分は、その行為を行う全ての生命体において、
 何らかのメリットを含んでいます。
 つまり、行為の一つである「殺す」も同じように、何らかのメリットの上に成り立っているわけです。

 
 人が(人だけとは限りませんが)自身にとって何らかのプラスになるように動くのは自然なことで、
 テレビのワイドショーなんかを賑わせている汚職問題などなど私利私欲の渦に飲み込まれることも、
 それからすれば当然なわけです。

< p> だからといって私は、殺すことや、私利私欲に動くことをお奨めは致しませんがね。

 最後になりますが、今まで私が訴えてきたことは、
 その行為によるその後に与える影響というものは、一切含んではおりません。
 ただ「殺す」には善も悪も無いと言っただけに過ぎません。
 そして、この意見が正しいかどうかすらわかりません。

 否定しようと思えば、否定できるところだらけでしょう?
 きっと、答えなど無いのです。そして、無いものを作るなど、我々にはできません。
 
 っとまぁ、無限のループの入っていくわけですが、それは私の話です。
 あなたはあなたなりの答えを探して、描き続ければいいと思います。
 後に あぁ、これは間違った! となってもいいんです、気� �いたときに直せばそれでいいんです。
 それもまた、作品と作者を繋ぐ新たなストーリーになるやも知れません。

 勝手な私的文章でしたが、参考にでもなればうれしいです。


クリステさんからの意見
 初めまして。興味深い話題なので意見させていただきます。
 ……といっても単に反論するだけなんですけど。

 「同種のヤツを殺すと、種全体の損失になるから」と言った趣旨の意見に関して。
 同種のヤツを殺す→種全体の損失になる→だから殺したらダメ 
 と言うのはちょっと違うかな、と思います。
 
 もし、上の論理が成り立つならば、この世の全ての動物は同種の生物を殺さないでしょう。
 ところが、以下のように、同種で殺し合い(あるいはそれに近い� �と)をしている動物は結構います。

・オオカミ
 子オオカミは、「自分が」生き残るため、兄弟姉妹を押し退けてでも母親の乳首を独占しようとします。
 沢山乳を飲めなかった哀れな弱い子どもたちは飢え死にします。
 こうして、強いオオカミだけが生き残り、大人になったオオカミは安定して発展していきます。

・……鳥って事しか覚えて無いけど(オイ

 二つの卵を産んで、二匹の雛抱えてとりあえず育てる。
 けど、途中で弱い方を、ぶっ殺す。そう言う鳥がいました。
 こうして強いやつは以下略。

・ライオン

 ライオンは雄一匹雌数匹のハーレムを作ります。リーダーはたった一匹の雄です。
 ある日、ある群の雄ライオンが、他の雄ライオンに負けて� ��政権交代が起こりました。
 前任者は群を追い出されます。多分死にます。
 前任者に勝った雄ライオンは、前任者の子供たちを次から次へと殺し、
 前任者のタネを根絶やしにします。
 そして、群にいた雌ライオンと交尾して、新しい子供を作らせます。
 こうして、強いライオンの遺伝子が残り、後世のライオンはどんどん強くなっていきましたとさ。

 生き物なんてこんなもんです。
 極端なことを言えば、人間最近繁殖しすぎだし、飯無駄食いしないために人減らそうぜ。
 オリンピック選手とIQ130以上のやつ以外全員殺そうぜ。
 って言うのが(生物的には)正しいのでは? と思います。
 いや、そんなのは絶対嫌だし、それなら飯沢山作れよ、と思いますよ。勿論。

 あ、� ��なみに、自分は「殺し合いは際限が無いから」殺しちゃいけないと思います。
 でも理由は他の人とほぼ被ってますし、省かせていただきます。

片那さんからの意見
 私は結局のところ、生物が他の生物に対して行う動きは一つだと思います。
 それは「自己にとって必要か?」ということです。

 
 必要と判断したならば、現状維持ないしそれ以上の関係を持とうとしますし、
 不必要と判断したならば排除ないしそれに準づる行動をしようとします。
 これは人間だけでなく他の動物、植物も同様です。

 つまり、私の意見としましては
>なぜ殺してはいけないか
 その他を自己にとって必要と感じているから。
 その他が存在することにより、自己になんら かの利があるから。

>なぜ殺していいのか
 その他は自己にとって不必要だから
 その他が存在することにより、自己になんらかの不利があるから。

 となります。
 暴論もいいところです。
 ですが、境遇によって簡単に人を殺せる〜などを見ると、
 あながち間違ってないような気もしてくるんですよね。
 そういう人たちは、この必要/不必要の境界がはっきりしてるんだろうなぁ、と思ったり。

氷室さんからの意見
 私の愛読書『されど罪人は竜と踊るV 災厄の日々』の中の黒衣の福音にて、
 この質問にぴったりな答えがあったので引用します┏○ペコッ

 主人公が連続殺人犯を名乗る人物に
「デは、質問を一ツ。ドうして人は人ヲ殺シてはいけナイのでショうか?」
 と受信機越しに訊ねられた場面です。

「古来、社会が殺人を禁止したことはない。いつの時代も戦争で人を殺し、犯罪者を死刑にしてきた。
 ただ、味方を殺すな敵を殺せと分けてきただけだ。
 殺人を禁止するのは、単にその時代の道徳や法という気まぐれだ」

「倫理道徳や法なんて曖昧な議論は、おまえも聞きたくないだろうから、効率論から言おう。
 殺人を前提とした社会は存在不可能だ。
  互いに互いが潜在的な敵である社会では、全員が不安で、
 自分を守るために過大な労力が必要とされる。
 そんな社会は発展することが難しく、いずれ自滅する。
 そして殺人を肯定することは、実は殺人者にも不都合だ。
 殺人者にしても、人を殺す機会を得るその前に、自分を殺されるわけにはいかない。
 つまり、殺人を原則的に否定する社会のほうが、誰にとっても都合がいい」

 自論としては「人は人を殺す必要が無いから」ですね
 肉食動物は他の草食や肉食動物を食べないと生きていけないですが、
 人間はわざわざ同じ人間を殺して食用とする必要がないですし、
 農業や酪農などで食料が生産できますから。

淡雪さんからの意見
 はじめまして、咲さん。私は淡雪� ��言う者です。
 それでは早速本題に入ります。
 「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する私の答えは、

 「殺人が肯定された人間社会は根本的に成り立たない」からです。

 どういうことかと言うと「殺人」が「肯定」された社会とは自分が人を殺しても構わないと同時に、
 「自分自身がいつ殺されてもおかしくない」という状況であるわけです。

 つまりは日常生活のなかで常に「誰かに殺されるかもしれない」
 という強迫観念が付きまとってくるのです。
 こんな社会で人間が生きていたら殺人に因るものだけでなく、
 重度のストレス障害やら病気やらが頻発し、結果として人類は滅んでしまうからです。
 こんな社会在ってほしくないですよね。
 やたらと「」を 使ってしまいましたが、私からの意見はこんなところです。

鈴音さんからの意見
 勝手ながら書き込ませていただきます。
 
 色々ありますが……時代じゃないでしょうか?
 
 今は人を殺しちゃいけない、やられていやなことはやらない、って教え込まれてます。
 でも、戦争中なんかは?

 お国のために人を殺します。そう教え込まれているからです。
 お国のためにその国の全ての人が人を殺す手助けをします。

 とりあえず、また日本が戦争するようだったら、また敵国の人間を殺せって教え込まれるんだから、
 上の人間の都合なんじゃないですか? 人殺しがいけないか正しいかなんて。



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