特別企画座談会「日本がイラクで成し遂げたこと」(「外交フォーラム」平成17年1月号より転載)
特別企画座談会
「日本がイラクで成し遂げたこと」
(「外交フォーラム」平成17年1月号より転載)
外務省中東アフリカ局参事官:宮家邦彦
外務省経済協力局無償資金協力課長:鈴木秀生
陸上自衛隊第11後方支援連隊長一等陸佐:今浦勇紀
防衛庁陸上幕僚監部広報室長一等陸佐:番匠幸一郎
防衛庁陸上幕僚監部防衛部一等陸佐:佐藤正久
日本の自衛隊、イラクへ
-本日はイラク復興支援活動に深く関わってこられた方々にご参集いただきました。日本はイラクで何をどのように成し遂げたのか、イラクの方々にどう迎えられたのか、お聞かせ願いたいと思います。自衛隊のイラクへの派遣が決定し、まず2004年の年明けに佐藤一佐を長とする先遣隊がイラクに派遣されたわけですね。
佐藤 私は先遣隊の隊長として、1月16日に日本を発ち、クウェート経由で19日にイラク南部サマワに入りました。現地では当初オランダ軍キャンプ、スミッティーに滞在しました。われわれの任務は5つ。第一に本隊派遣決定に資する現地の調査・報告、第二にわれわれの宿営地建設のための土地の借り上げ交渉、第三に宿営地構築・本隊の受入れ、第四に復興支援手順の確立、そして第五に住民ネットワークの構築です。これらを2月27日までに形づくることが私に与えられた任務でした。
当初私は先遣隊長として派遣されましたが、2月27日、第一次復興支援群長番匠一佐がサマワ入りしてからは、イラク復興業務支援隊長として活動しました。おもな任務は対外的な各種調達でしたが、復興支援プロジェクトの企画立案はその中心で、自衛隊のプロジェクトと外務省の政府開発援助(ODA)を中心とする復興支援との連携を図りました。そして8月7日に任務を終え、日本に帰国しました。
復興支援を行う上で最も苦労したのは、現地の方々のニーズとわれわれのできることとのギャップにいかに対応するかということです。現地の方々のニーズは幅広く、高いレベルの支援が求められる。しかし所与の条件の中では、われわれの資源や能力に限界があります。さらに、それをイラクの人たちのために、彼らのイニシアティブをうまく活用しながら支援するにはどうしたらよいのかという点で、苦心しました。
日本の自衛隊には東ティモールやゴラン高原等での国連平和維持活動(PKO)の経験があります。私もゴラン高原での任務に携わりましたが、過去の経験、教訓を活かしながらイラクでの復興支援活動をすることで、順調に任務を遂行することができたのだと思っています。
番匠 私は第一次復興支援群長として2004年2月にイラクに参りました。
実際にイラクに行く前に、大きく四つのことを意識して準備しました。イラクに派遣されるのは既存の部隊ではなく、いろいろな部隊から人を集めて編成された新しい部隊で、またこれまで中東地域に行ったことがない人がほとんどでしたから、第一に新しい部隊の編成、第二に教育訓練。そして第三に装備品の準備、第四に心の準備です。
1月26日に陸上自衛隊本隊に編成命令が発令され、2月以降逐次出発しました。私は2月21日に本隊の第一陣として日本を発って、27日にサマワに入り、佐藤隊長から任務を引き継ぎイラクにおける派遣部隊の指揮を執ることになりました。当初の任務は大きく3つです。まず、隊員の移動や装備品の輸送・展開や宿営地の構築など、現地での業務の基盤をつくること。そして、現地の方々や諸外国の部隊など外部との調整。さらに、われわれ自身が行なう復興支援の3つの柱-医療・給水・施設支援を確立することです。
その際に留意したことは、第一にとにかく日本の旗をイラクに立てるということです。日の丸を立てることで正式なスタートを切ることができる。第二に基盤づくりです。特に現地の人たちと信頼関係を築くことが大事です。第三に隊員の安全、健康です。
レキシントンの人に勝った
今浦 私は第二次イラク復興支援群長として、5月8日に日本を発ち、17日にイラクに入りました。その前、2003年10月中旬から訓練を開始し、翌年4月16日に訓練を完了し、4月27日に部隊の編成を完了しました。私は5月26日から8月30日までの3ヶ月間イラクで活動をして参りました。われわれの任務は、第一次復興支援群のつくった基盤をもとに宿営地の諸施設を完成させること、そして先ほど出た復興支援の三つの柱-医療・給水・施設支援に関する業務要領を確立することです。
6~7月には、復興支援活動も順調に進み、給水活動、小学校の修復、道路の整備・復旧、そしてオリンピックスタジアムの補修等により、600人規模の雇用を生み出すことができました。
鈴木 私は総合外交政策局にいた2003年9~10月に調査チームに同行し、イラクを視察しました。そこから本格的にイラクへの復興支援の準備が始まりました。
日本国政府がその総力をあげてイラク復興に取り組んでいく中で、外務省として何をすべきか具体化することから始めました。防衛庁と外務省とは車の両輪です。佐藤隊長が先遣隊としてイラクに派遣されたまさにその日の1月16日、外務省は、国連人間居住センター(HABITAT)および国連開発計画(UNDP)など国連機関を活用して、現地の雇用創出を目的とした支援策を決定しました。また、陸上自衛隊本隊第一陣がサマワ入りした2月9日にはムサンナ県水道局に12台の給水車をODAで供与し、浄水した水を現地の方々に供給することができるようになりました。これはまさに自衛隊と外務省の活動が連携した例で、自衛隊が浄水をしてその水をODAで供与された給水車が配って回ることになったわけです。医療についても、2月14日にサマワの母� ��病院に医療機材をODAで提供しました。ODAで機材を調達し、クウェートからサマワの近くのタリールという空軍基地まで航空自衛隊に、そこから病院まで陸上自衛隊に運んでいただきました。このような例を挙げればきりがありません。防衛庁と外務省の活動があわさって初めて日本全体としての支援が実現できるということです。
今年10月初めにも私はサマワに行きました。日本の給水車が市内の至るところで見られました。サマワからずっと離れたヒラールやマジッドという小さな村にも、ODAで提供した浄水器が供与されている。その浄水器に至るアクセス道路は自衛隊に整備していただきました。これによって初めて給水車が河辺の浄水器までアクセスできる。さらにこれらの給水車が通る農村の道の舗装もODAで今まさにやろうとしています。
宮家 私もサマワに行きたい気持ちはもっていたのですが、結局は連合軍暫定当局(CPA)バグダッド中心部の管理区域(グリーン・ゾーン)に行くことになりました。ちょうど番匠さんがサマワに入られた頃、私もバグダッドにいましたが、当時の私の仕事はイラクに展開する各国の復興支援の調整です。日本の陸上自衛隊がサマワに行くことは、CPAの中でも大きなニュースでした。私も自分のことのように誇りに思っていました。
これまで、中東・湾岸地域は日本の安全保障に直結した問題としては論じられてきませんでした。今回は、中東地域について、外務省と防衛庁・自衛隊が一緒になって真剣に議論して、政策を実行した初めてのケースです。石油などエネルギー資源の確保の観点からも、日本の安全保障を考えても、これからの日本の政策を考える上で重要な一里塚だと思います。自衛隊とODAは車の両輪です。一輪車だと倒れてしまします。その意味で、みなさんのサマワにおけるプレゼンスは日本の安全保障の議論の中でも歴史的な意味があると思います。
防衛庁と外務省とは車の両輪
佐藤 外務省のODAと自衛隊の活動の連携は今回のイラク復興支援の特徴の一つだと思います。現地の人々にしてみれば、われわれは防衛庁だろうが外務省だろうが「日本の代表」です。ですから、現地の人のニーズをすべて受けとめて、宿営地に持ち帰って外務省の方々と情報交換をし、プランニングしていくようにしました。それから、互いの得意分野を活かし合うことを考えました。今回のように国際協力機構(JICA)や日本人コンサルタントが入れない状況にあって、われわれがODA案件に協力できることがあります。医療や土木、水などの専門的職能をもった自衛官によるアドバイス、あるいは機動力を活かした情報収集です。
例えば、先ほども話に出ましたが、ODAで浄水装置と給水車を供与しました。給水車がなかなか入っていけないところに浄水装置を置いて、その周りの村々に給水タンクを置く。浄水装置と給水タンクの間を日本から供与した給水車でピストンするというシステムを導入しました。その際、一軒一軒に水を配るのではなく、給水タンクまで人が水を取りにくるシステムが機能するかどうか、村の有力者や部族長、住民に聞いて回って情報を集めました。それを外務省の事務所の人に伝えました。そういうかたちで連携しながらやりました。
他の国でも、省庁が違うと連携するのは難しいようで、オランダやイギリスの方から、日本の外務省の方と自衛隊がここまでうまくやっているのは驚きだという声を聞きました。
広島に原爆を落とした飛行機は何だったの
鈴木 サマワでは毎晩夜の8時から10時くらいまで、自衛隊と外務省の間で、"経協会議"をやっています。私も10月はじめにサマワに行った時に参加しました。互いにチェックリストを持ち寄って、「これはどうなっているのか」、「こういう情報があった」、「これは自衛隊がやったほうがいいのか外務省がやったほうがいいのか」と議論しているのです。この熱の入った議論には私も驚きました。
今浦 復興事業は小規模・中規模・大規模、あるいは小回りのきく短期的なもの、中長期的なものという観点で考える必要があります。今回の自衛隊の活動は小規模で短期的なものです。私はサマワ宿営地は復興支援の橋頭堡だと考えていました。現地の方々にも「このサマワの宿営地は平和と復興の拠点です。この地域が安定していくと、さらに中長期的、あるいは中規模・大規模な事業がどんどん拡大していきます。サマワからムサンナに、ムサンナから南東部に、南東部からイラク全土に、平和が、復興が拡大していくのです」と言いました。まず自衛隊が拠点を築き、復興の立ち上げに寄与し、続いてODA、民間企業の参入により復興を本格化していくという時間的な視点で見ても、今回のやり方は1つの成功例にな� ��たという気がします。
番匠 われわれはなぜイラクに行くのか。もちろん戦争に行くわけではない。戦闘行動をするわけではなくて、特措法で示されたように、イラクの困った人たちがいる、その人たちの手助けをするために、アジアの友人として人道的な観点で復興支援を行なうのです。それをまずしっかり心に留めて、私は4つのことを大切にしようと隊員たちに言いました。
1つは誠実さです。日本人らしく、誠実に心をこめてやろう。2つ目は規律です。世界のいろいろな国が日本を注目しているし、われわれがやっていることを、後世の人たちもきっと見るだろう。武士道の国の自衛官らしく、規律正しく堂々とやろう、と。3つ目は団結力です。先ほど申し上げましたが、私たちの部隊は、今ある連隊がそのまま行くわけではなく、法律に基づいて業務を行うために臨時に編成された部隊です。ですから、隊員たちの心を1つにしていこう。そして4つ目、これが最も重要ですが、健康と安全に十分留意することです。病気になったり、あるいは安全上大きな問題があったとしたら、今申し上げたことはすべて根底からくつがえされてしまう。この4つをもって、現地で仕事をしようと言いました。
さらに、自分の軸として考えていたことが3つあります。まず、法です。われわれは人道支援のための特措法に基づいてイラクに派遣されるわけですから、その法律に定められた枠の中でベストを尽くそうということ。もう1つは国益です。われわれは日本の代表として行くわけですから、国益をふまえて仕事をしなくてはならない。3つ目に歴史的な視点です。アラブの人たち、イラクの人たちにとっての日本人のイメージがあります。先輩たちが築いてきてくださった、あるいは日本人が作りあげてきた伝統や実績の上に今のわれわれがいて、そしてわれわれがやっていることは50年、100年を経て、われわれの後輩たちに見られる。ですから、歴史の1ページをちゃんと刻もうということを自分自身の規範としてもつようにしました。
宮家 歴史は最も大事な観点だと思います。私が1978年に外務省に入省してアラビア語研修を終え、初めて勤務した国がイラクです。それ以来の長いつきあいになりますが、イラクという国は、普通のアラブ国家と少し違うと思います。まず、地理的に、多くのアラブ諸国はアラブ国とのみ隣り合っています。しかしイラクは、歴史的に「四つの敵」に囲まれてきました。過去数千年のイラクの歴史は、悲しいかな略奪と殺戮の歴史でした。イラクは豊かな2つの川の流れる肥沃な平地ですが、この土地が豊かになる時に、必ず東から西から北から南から異民族が入って来る。イラクはその数千年の歴史の中でトルコとペルシャにより、1000年以上支配された国です。
この歴史的記憶が、イラク人の性格をつくり出していると思います。さらに、中東人の常として彼らの要求も「底なし」です。佐藤隊長や両群長は最前線にいて、イラクの人たちと毎日のように連絡をとるわけでしょう? 本当にたいへんだったろうと思います。
2004年の1月頃、6月の主権移譲に向けて、占領政策を最終的に完成させようという時期のことです。CPAのアメリカ人が「俺たちは昔、ドイツと日本の占領を成功させた」と言うわけです。冗談じゃないと言いました。日本には大正デモクラシーという、東アジアに誇る民主主義の経験があった。私は日本の戦後の成功の裏に3人の人物がいたとよく言います。第一に、日本では国の求心力となる昭和天皇がおられましたが、イラクではサダム・フセインは逮捕されました。第二に日本には、戦後外国から帰国して総理になった吉田茂がいましたが、アラウィーさんは果たしてイラクの「吉田茂」になれるのか。最後に最も強調したいのが、マッカーサー元帥の存在です。マッカーサーは連合国最高指令官として、軍事的権限と政治的権限の両 方をもっていた。しかし、私のいたCPAには文官のトップにブレマー行政官が、そして軍のトップにサンチェス駐留米軍司令官がいた。ポリティコ・ミリタリー(政治・軍事)という点では、マッカーサーの司令部と比べ、CPAでは連絡調整等に若干問題があったと思います。古今東西、文民と軍人の間の調整は難しいものです。
イラクにおける日本のイメージ
大恐慌の株式市場の暴落
番匠 アラブの人たちは日本のことを、思っていた以上にご存じでした。日露戦争でロシアを破ったこと、大東亜戦争でアメリカに負けて国土が完全に荒廃した中から世界第2位の経済大国となるまで成長を遂げたアジアの一員と、ある意味では敬意をもってくれていました。
もう1つ、現地にいて幸福だと思ったのは、1980年代に日本企業が建設してODAで機材が入った13の病院の1つがサマワにあったことです。現地の人たちは日本の力で建ててくれた立派な病院だと認識していました。多くの日本人がサマワに駐在してその建設に携わった。その日本人たちの活躍、働きぶりは今でも伝えられています。過去の先輩たちがつくり上げてきた日本のイメージがあったわけです。
鈴木 私は今、自衛隊の方々がやっている事業、あるいは無償資金協力でやっている事業自体ももちろん重要だと思いますし、現地の人たちからも評価されていますが、何よりも日本人のプレゼンスを見せていることが重要だと思います。番匠さんがおっしゃった、われわれが先祖から引き継いできた徳目、信義・誠実を、まさに実行している。そういう態度でサマワの人と接していることが、イギリスでもアメリカでもなく、日本であるという安心感を与えているのではないでしょうか。われわれがサマワにいることをサクセス・ストーリーにすることができれば、私はこれまでの欧米中心に動いてきた中東の政治地図に日本がリアル・アクターとして参加できる、そういう大きな意義を有する派遣だと考えています� ��
宮家 「オックスフォード・リサーチ」というイギリスの会社で定期的に世論調査をやっています。「どの国にイラクの復興を支援してもらいたいのか」という質問があって、一位は日本です。もちろんその理由は、力強い日本経済のイメージですが、おそらく日露戦争以来の"美しき誤解"もあったのではないでしょうか。彼らとは生活環境、宗教などあらゆる面で異なる。しかし、彼らは日本のいいところだけを見てくれている。本当にありがたいことです。
2004年10月13、14日に東京で支援国の会合が開かれました。バグダッドから来た代表団のトップは副首相でした。偶然にもその副首相は、私のかつての友人なんです。彼はサマワの自衛隊の活動についてよく知っていて、これを高く評価していました。感謝してくれただけではなく、「イラクの国づくりに大きな役割を果たしている、日本の支援が私たちにとって心の支えになっている」とまで言うのです。12月15日以降自衛隊の派遣が延長されるのかどうかわかりませんが、少なくとも今までのやり方は間違っていなかったと確信しました。
佐藤 私はイラクの人と付き合う機会が一番多かった人間だと思いますが、やはり日本への特別な思いがあることを感じました。彼らは日本人に対して正直で優しいというイメージをもっています。1月19日に降り立った最初の日からそういう目で見られました。5月6日には、日本を支援するデモもあったんです。その最初の言葉は、"Honest Japanese"です。"All of us are with you to rebuild our safe city"と書いてある。「正直な日本人よ、われわれと一緒に」と。
前陸上幕僚監部の先崎陸幕長は、われわれに「郷に入ったら郷に従え」という言葉を贈ってくれました。われわれは日本で日本人と付き合うのと同じような感覚で向こうの習慣をそのまま踏襲しました。例えば部屋に入る時は右足で入って、出る時は右足を残して左足から出るとか、決して足の裏は相手に見せないとか、いろいろな習慣があるわけです。イラクの、特にサマワは昔ながらの部族社会が残っているところです。細かい習慣も尊重し、実践して対等だということを伝えることによって、さらに相手の信頼、尊敬の気持ちが生まれる。
私が恐れていたのは糖尿病です。1カ所調整にいくと、通常チャイというお茶を3杯、さらにコーラを1本飲まないと帰してくれません。チャイの3分の1は砂糖で、非常に甘い。でも、イラクの人たちのルールに従った付き合いをすると喜んでくれるわけです。隊員もその日の話題やジョークを考えたりと苦労しています。でもその苦労の甲斐あって、現地の人たちとの関係をうまく築いていけたと思います。
主役はイラク人
番匠 復興支援の主役は一体誰か。それはわれわれではなくて、イラクの人たちです。彼らが主役ですから、彼ら自身がつくっていかないといけない。それを後押しするのがわれわれの仕事であって、決して彼らにやってあげる、あるいは彼らの仕事を自分たちでやるということではありません。ですから、できるだけイラクの人たちの労働力を尊重して、彼らに実際に働いてもらう場面を増やすことを考えていました。また、彼らに夢や希望、やる気をもってもらうことも大事だと思いました。
さきほど話に出た5月6日の日本支援デモの前日、5月5日は端午の節句です。私たちはあるものを用意していきました。それは鯉のぼりです。私が勤務していた北海道の部隊がある名寄の市民の方々に、サマワの子供たちにプレゼントしたいから寄贈してくださいと頼んでみました。そうしたら200匹以上が集まり、現地の方々と協力してその鯉のぼりをユーフラテス河になびかせたのです。
佐藤 市場にも泳がせましたね。
番匠 ええ。それは壮観なものでした。私はたいへん嬉しくて・・・。そこに私たちが込めたメッセージは、「私たちはイラクのあなた方に夢と希望をもってこの国を再建するという元気を出してほしい」ということです。鯉のぼりは、親が自分の子どもの成長を健康を祈って掲げるものですね。日本の素晴らしい伝統です。ですから、日本人から未来をつくるイラクの子どもたちに対するプレゼントとして差し上げたのです。事前に根回しもしました。地元の有力者や、マスコミの人たちに説明して回ったり、パンフレットをつくったりして鯉のぼりの意味を理解していただきました。翌日には、イラクの子どもたちがわれわれのところを訪ねてきて、絵を贈ってくれ、「昨� �はありがとう」と作文を読んでくれたりしました。鯉のぼりは1つの例で、学校を回ってミニコンサートを開いたりと、復興支援の柱だけではなくて、勇気とか夢をもってもらう活動をいろいろと工夫して実現しました。
われわれ自衛隊から合計約600名がイラクに派遣されていますが、かつてイラクで勤務したことのある隊員は、1人もいません。過去にPKOを含めて海外で勤務したことのある隊員は約1割です。実際に活動する隊員のほとんどが、国際勤務は初めてでした。しかし彼らはごくごく自然にイラクの人たちに溶け込んで仕事ができました。そこはやはり日本人の優しさ、誠実さが自然に出ていたのではないかと思います。
今浦 われわれの時には七夕の行事を企画しました。仙台の七夕祭りのイメージで飾り付けをして、短冊に願いごとを書いてもらいました。こういったかたちで、外国人で現地の人と溶け込んで交流するのは日本人だけだと現地の方に言っていただきました。われわれは常にあなたたちのパートナーでありたい、あなたたちもわれわれのベスト・パートナーです、と対等な付き合いができるのが日本人の美徳だと思います。
バスラにある多国籍師団の司令部に行きましたら、サマワの自衛隊で働きたいという人がたくさんいるという話を聞きました。非常に嬉しく思いました。相手の立場を尊重して、郷にいれば郷に従う。媚びへつらっているわけでもない。普通に相手と一緒に仕事をする。そういう姿勢が伝わっていたのだと思います。
宮家 イラク人が主役だとおっしゃったのはまさに正しいと思います。イラク人は教育水準が高く、誇りも高いが若干外国人嫌いのところもある。そういうところでの正しい対応は「あなたが主役だ」という態度です。CPAでも「日本の自衛隊はよくやっているね」といつも言われました。自衛隊の活動を紹介したコマーシャルをイラクで放映していますね。さきほど番匠さんがおっしゃったようなメッセージが書いてある。それが評判で、CPAの広報担当の人がどうしたらああいうふうにうまくいくのかと私に聞いてきました。
佐藤 広報活動はいろいろとやりました。2つのポリシーを前面に出しました。イラク人のイニシアティブ・能力向上を主体とする復興支援を行なうということと、われわれはアジアから支援に来た友人ですということです。テレビでコマーシャルを流したり、新聞を発行したりしました。実はサマワで発行部数が最も多いのは、自衛隊の発行する新聞です。内容は、外務省や自衛隊の活動、交流の様子などについてです。リーフレットもムサンナ県バージョンと、県を構成する11の地域それぞれのバージョンをつくりました。そういうもので有力者や政党の方、宗教家、部族、あとはテクノクラートなどを通じて、いろいろなところに発信しています。
日本のもてる力すべてを使って
鈴木 2004年は自衛隊創設50周年ですが、これまで自衛隊が歩んできた決して平坦ではない道、国民の理解を得るための努力が今回の派遣にも活かされているのだと思います。また、外務省のODAも実は今年で五〇周年なのですが、日本の経済協力はあくまでも自助努力を中心に据えています。イラク人がやりたい、こうしてほしいといったものをやっていくことを基本としていますから、少し時間はかかりますが、中長期的にはいい成果を生み出していくと私は思います。アメリカなど他国は、とにかく自分たちで計画をつくってどんどん進めてしまう。スピードは速いのですが、地元との融和や、イラク人が主体だというメッセージはなかなか伝わってこない。そういったアメリカと日本のやり方の違いは、これまでの� ��史、特に戦後日本の国のあり方に根付いています。それがこれまでの成果を生み出している精神的なバックボーンではないかと思います。
今浦 多国籍軍の中で自衛隊だけがなぜ違うのかとよく言われます。軍隊は恫渇の手段で、自衛隊は共感される軍隊だという論文がありましたけれど、戦後50年間、国民の理解を得るための先輩たちの努力が積み重なって、それが文化となって、隊員1人ひとりに根付いているのではないか。これは財産だと思います。
番匠 部隊の安全という側面で話をしますと、隊員が安全に健康にそこで任務を遂行するには大きな前提があります。1つは、自分たちの周りの敵意の海ではなく、友好の海にしていくということ。
もう1つは、なぜ自衛隊がイラクに行かなくてはいけないのかということにかかわりますが、今は他の国で言えば軍隊、日本で言えば自衛隊という実力組織が現地で活動する段階です。現地の情勢が落ち着いてくれば、国際機関やODAを利用主体とする政府機関、あるいはNGOや民間企業の人たちの活動の場に発展していくでしょう。しかしそこに至るまでは、自衛隊組織でなければその仕事はできない。そうすると、われわれ自身が精強な軍事組織でなければならない。私は先ほど申し上げたように、規律、軍人としての能力、あるいはその活動については一切妥協してはならないと思っていました。われわれはイラクに駐留している30数カ国の中で最も精強な部隊であることを目指しました。その精強な部隊が笑顔で優しく仕事をするとい� ��のが、私たちのコンセプトだったのです。
現地において、外交官の方々が本当に立派だなと思ったのは、彼らの外交官魂です。忘れられないことがいくつかあります。1つは、イラクでお亡くなりになった奥大使の同期、香川公使がサマワ所長として着任されました。いつも「私はここで奥の遺志を継いで仕事をするのだ」とおっしゃっていました。一緒に仕事をさせていただいた方々みなさんが外交官としてのプロ意識をもっておられた。それがわれわれ自衛官の側にもひしひしと伝わってくる。ですから同じ宿営地の中に一緒に住んで、溶け込んでいて全然違和感がない。いい関係をつくらせていただきました。
鈴木 日本のもてる力をすべて使って良い結果を出すということですよね。日本がODAで供与した給水車に、今地元でも人気の「キャプテン・マジッド」の名で大人気の「キャプテン翼」の大きなステッカーを貼っています。それがサマワ市内を回っている。今回のイラク復興は大きくとらえると、こういうソフトも含めた日本プロモーションだと思うんです。
佐藤 そう。304個の給水タンクも、日本プロモーションですね。
鈴木 日本人がいて、日本のキャラクターがいて、日本の製品が出て行って・・・大変な効果だと思います。
宮家 日本では、イラクでの自衛隊の活動に不信を抱かせるような報道がありますが、現場の感覚は全然違います。イラク人の目線で自衛隊を見れば、報道されているような印象でなないでしょう。そうでなかったら、バグダッドまで名声は伝わってこないと思いますよ。そこは公正に報じてほしい。
番匠 ほとんどの隊員が今回の任務につけてよかった、また行きたいと言ってます。現場の人間はそういう気持ちで今回の任務をやらせてもらっています。
宮家 ひと昔前には、まさか自衛隊の部隊がサマワに行くとは思いませんでした。今回、チャンスをうまく使っていい仕事をしていただいた。これば防衛庁、特に陸上自衛隊にとって金字塔だと思います。
佐藤 ODAと連携しているからできるんです。最先端のシビリアン・アフェアーズです。
―――本日はありがとうございました。
(11月8日収録)
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