咲さんからの質問
なぜ人を殺してはいけないのですか?
スレを立てる側としては初めての僕です。
今回、皆さんのご意見&お力がほしく思い、登場した次第です。 それでは本題。
タイトルの通りで、
『何故、人を殺してはいけないのですか?』
早い話が、今書こうかと思いだした作品のテーマがこれなわけです。
そ して各個人によって似たり寄ったり異なり逸れたりな、
それに対する答 の共存&妥協&対決をメインに書きたいと思いました。
しかし如何せん、僕一人の想像力では偏執しそうで不安(いや、最終的にそうすると思うんですけど)です。
そこで、皆さんの意見&答をお聞きしたいのです。
できれば対する意見としての、
『何故、人を殺してもよいのか?』というのも聞きたいです。
個人の主観や、客観的な見地による合理的な解答など、
色々な考えを教えてもらえたら幸いです。
追記:
数年前の話で正確さも微妙ですが、学校教育の一環で倫理の講演がなさ れた際に、
こんなエピソードがありました。確か『国家の品格』かなん かにあった話だと思うんですけど。
一人の生徒が挙手し、講演者に対して上記の質問をしたそうです。
そして講演者はその質問に答えることができませんでした。
それを受けて文科省はわざわざ『何故、人を殺してはいけないのか?」
について合理的な理由を文書にして作らせたっていう話です。
ちなみに『国家の品格』の著者は、そんなものには合理的な理由などな い。
「いけないことはいけないことなのだ」――それを肯定しようとす ることがそもそもの間違いだ、
的なことを言っていた気がします。
僕の考えもそれに近く、主人公もその考えが主軸にあります。
ちなみに登場するキャラで今、思いついているのは
・殺傷症候群患者(♂)&嗜血症(♀)のラブラブカップル。
→殺人肯定派を担当。
・殺し屋の殺し屋(♀)
→殺人者の殺人者という矛盾を担当。
……です。それでは。駄文長文失礼しました。
意見、お待ちしております。
●答え●
鈴忌さんからの意見
お久しぶりの鈴忌です。
> 『何故、人を殺してはいけないのですか?』
白も黒と説得できるのが作家なので詭弁を弄してみてもよいのですが(苦笑)、
せっかくなので個人的なぶっちゃけ意見を。
回答:「自分や大事な人が殺されたくないから」
ですね、ただ、これは「自分がされたくないことを人にしたらいけないでしょ?」という話じゃありません。
複数の人間が集まっている社会において、ルールがなければ、
みんな怖くて生活なんかしていけないという話です。
社会は「人を殺してはいけない」というルールを作ることで、
お互いの安心した生活を保障する機能を持ちます。
そのルールを守る限りにおいて、自分もまたルールに護られるわけです。
これが、法律における「刑� ��」の考え方です。
「人を殺してはいけない理由」というのは鈴忌からみると、
このルール以上でも以下でもないです。
だから、ルールを破って殺人をした人間が刑罰で殺される、
いわゆる「死刑制度」には別に反対しませんし、
同じルールを共有しないコミュニティ同士が争う「戦争」で
「勝った方が一方的に、負けた方を裁くこと」もおかしいと思ってません。
要するに、倫理観だとか道徳観だとか、そういう話は全部後付で、
結局は利益論というシニカルな意見です(笑)。
なので、逆に「自分はルールに護られる必要はないから」という理由で、
社会の庇護の外に立ち、すべての責任を自分で負う覚悟を持っているならば
「人殺し」もありだと思い� �す。むしろ、そこまで考えてるならカッコイイです。
もちろん、その結果、鈴忌自身が標的にされたり、
自分の大切な人が狙われたりしたら抵抗しますけどね(笑)。
その場合は、自分が社会の一員ならば相手を「社会の存在を脅かす敵」として
社会を巻き込んで戦うでしょうし、自分も社会の外にいる「相手と同じアウトロー」なら、
自分の法に則って個人的に戦うことになるのでしょう。
> 『何故、人を殺してもよいのか?』
上の意見をベースに考えれば「社会に護られる必要がない」ならば、
別に社会のルールを守る必要はないですよね?
もちろん、その場合は社会から敵と見なされる危険性が多大にあるわけですが、
それも織り込み済みで立ち向かうつもりならば、別段問題は何もないでしょう。
本来的に「生物」というのは「争う」ものです。
「補食」しかり、「生存競争」しかり、他者の命を奪わずには生きていけません。
我々だって、日々食事をしてますよね? 牛も豚も鶏も命ですよ、植物だって生きてます。
それどころか、呼吸一回で何万という微生物を肺に取り込み殺しているんです。
むしろ、殺すのが自然で、殺さないのは不自然です� ��
不自然な状態を維持するために、人間は法律というルールを作ったわけです。
(古くは共同体意識とか道徳や倫理とかも、そのルールに当たります)
自分が立っている場所(物理的、社会的問わず)には、別の誰かが入る隙間はありません。
だから、争って奪い取らないといけません。
自分が生きるためには、タンパク質の摂取が必要不可欠です。
世界は、タンパク質の奪い合いで成り立っています。どれも、本能的で自然なことです。
しかし、生存本能というのもあり、危険を避けたいという思いも自然にわき出ます。
そこで、両者に折り合いつけたのが「殺人をしてはいけない」とかに代表されるルールです。
だから、「なぜ、人を殺してもよいか?」という 問いには
簡単な答えが導けます。それは……
回答:「殺傷は、生物として自然なことだから」
『国家の品格』の著者とは真逆の意見になりますが、
殺人は「することが自然」であって、「しないことが不自然」だと鈴忌は思います。
そして、その「不自然な状態」を維持する必要があるからルールが世界中にあるんです。
もし「殺人がそもそも不自然」ならば、あんな大量の法律なんていらないでしょう? そう思いませんか?
> 個人の主観や、客観的な見地による合理的な解答など、
> 色々な考えを教えてもらえたら幸いです。
個人の主観ではありますが、一応、合理的な解答のつもりで論を展開してみました。
さて、どうでしょうか?
ちなみに余談ですが、鈴忌が中学生の時に道徳の授業で、以下のような心理ゲームがありました。
前提:あなたと、あなたの大事な人がいる。
設定:二人とも飢えていて、食料は簡単に手に入らない。
状況:あなたはある日、小さなパンを二つ手に入れた。
問題:大事な人の元へ帰る時に、路上で今にも死にそうなほどに飢えている人を一人発見した。
クエスチョン:あなたはどうする?
さて、咲さんならどう答えますでしょうか?
この心理ゲームは、一般的な解答として以下のようなものが想定されているらしいです……
1,無視する(自分と大事な人優先)
2,パンを二つともあげる(倒れてる人優先)
3,パンを一つあげる。もう一つは……
→ 大事な人にあげる(自分は途中で食べたとか言う)
→ 大事な人と分ける
→ 自分で食べる
4,あげたことにして食べてしまう。
それぞれ、善し悪しではなく考え方の傾向というのが読みとれるらしいのですが、
このときの鈴忌の解答は、当時の担当教師の度肝を抜いたらしいです(笑)。
それは……
・ほっといても死ぬなら、殺すか死ぬまで待つ。
・死体も食料なのだからもって帰る。
・食料が増えて自分も大事な人も万々歳。
(大事な人が人間を食べるのをいやがるなら、
パンを二つともあげて自分は死体を食べる)
心理� ��析のしようがなかったらしいです(苦笑)。
この話を、現在の友人と「中二病だよね」と笑いながらしていたら、
友人に「いや、それは立派なサイコパスだよ」とつっこまれました(笑)。
確かに、鈴忌が何か新聞に乗るような殺人事件を起こしたら、
絶対にニュースとかで放送されそうなエピソードではありますが(笑)。
まぁ、もっとも、今でも別段間違っているとは思いませんけどね(苦笑)。
というか、極限状態なら、普通にありだと思うんですけどねぇ……いかがでしょう?
(ヒカリゴケ事件とか、ドナー隊事件とか、etc...)
> ちなみに『国家の品格』の著者は、そんなものには合理的な理由などない。
「いけないことはいけないことなのだ」
> ――それを肯定しようとすることがそもそもの間違いだ、 的なことを言っていた気がします。
この話は知りませんでしたが、もし、そう言ったとすれば、それは明らかに苦し紛れですね(苦笑)。
文章を書く人間として「ダメだからダメ」みたいな思考停止は最悪です。
それは、物書き側の考え方じゃないですね。
まぁ、もしかしたら「その場で説明できるほど短い話ではないから割愛した」のかもしれませんけどね。
> それを受けて文科省はわざわざ『何故、人を殺してはいけ ないのか?」について
合理的な理由を文書にして作らせたっていう話です。
その文書というのに興味がありますね。
むぅ、どこかに落ちてないか探してみます……。
> 僕の考えもそれに近く、主人公もその考えが主軸にあります。
鈴忌の勝手な意見ですが、主人公がその考え(ダメなものはダメ)なのはかまいませんが、
作者さんまで、そんな思考停止な考え方では作品が浅くなると思いますよ。
少なくても、鈴忌は浅いと思います。
むしろ「ダメなものはダメ」ならば、それはそれで、鈴忌的な偏屈な理屈屋までを
「あぁ、たしかにダメかも」と思わせるぐらいのパワーが欲しいところですね。
長くなりましたが、そろそろ失礼します。
どうぞ、頑張って下さい。
かおるさんからの意見
こんにちは。
これは、世の中の人のほぼ全員が『他人から殺されたくない』と思っているからです。
もし、人を殺 してもぜんぜんOKという世の中になると、ちょっと他人と口論となったり、
悪口を言っただけで、頭を銃で撃たれるかもしれません。
すると、いつ殺されるかわからないので、みんな非常に不安になり、
常に恐怖しながら生きることになり、まともな社会がいとめなくなるのです。
そのため、殺人が最高の罪、人間社会のタブーとなったのです。
戦争などは例外で、敵国を打ち倒すことが目的なので、敵兵を殺すことは正しいこととされます。
電子鼠さんからの意見
「まったくもう! やられた側の気持ちになってみなさい!」
……、おおよそ九割がたの日本の母が、一度は言った事のある言葉では ないでしょうか。
自分が殺されたら困りますよね、ものすごく。
家族が殺されたら悲しいですよね、ものすごく。
友人が殺されたら憎いですよね、ものすごく。
そう言うことだと思います。
殺人は、「憲法」「法律」のない時代からあった、言うなれば「タブー 」の一つでした。
だから、今では「法」をそれを犯したものを裁いているのだと思います。
やられたらいやなことはするな。
これ鉄則。
朧紅疾風さんからの意見
自分が語ると感情論で止まらなくなるおそれがあるので短くまとめますが、
早い話が『殺される側の身にもなってみろ』という意見です。
最近は、某N氏作品に出てくる殺人鬼のようなキャラがあちこちに見受けられますが、
……うーん、何なんでしょうかねぇ。
とりあえず、自分の一番大切な人がある日あっさり殺されてしまうキャラだったら、と想定してみます。
別にどうでもいい奴なら良い、という訳ではありませんよ。
本当は、人が一人死ぬのって周囲に予想もつかないほど大きな� ��響があります。
本当に分かりにくい意見(?)で申し訳ないのですが、ラノベの端役が死ぬのではなく、
身近な人が殺される事を考えてみて下さい。自分に言える事はこれが限界です。
では失礼いたします。
月野道掛さんからの意見
ふと思いましたが、似たような問いが『女王の教室)のドラマに出ていてちょいと驚きました。
初めまして、咲さん。月野道掛です。
確かに私も「殺される側の身にもなってみろ」という意見の人ですが、
少し違うような違わないような意見を一つ。
人を殺すと、大抵の人はその死体に戸惑います。
ついさっきまで生きていたのに今はこうして動かなくなってしまっているということに恐怖を覚え、
いつか自分も死ぬのではな いかという恐怖も無意識下で再現されるのかな、と。
それと、誰だって死にたくはないけど、死んだ人は何も分からないので、
殺人を重い罪にしたのは、遺族の復讐の意味をこめたから。だから重い罪にしたのかな、と。
それに殺人が肯定されたら、いつ殺されるか分かったもんじゃないので、
治安維持的な役割もあるんだと思いますが。
……微妙に的外れな意見でも、参考になれば幸いです。
でもこういう問題って、考えようによればいくらでも考えられるのかな、と思う今日この頃。
chiiさんからの意見
こんにちはー、創作掲示板はえらい久々になります。
chiiと申すものです。よろしくお願いします。
咲さんの問いについては私もいろいろ思うところは� ��りますが、
とりあえず以前読んだ本で面白いものがありましたので、
そちらを紹介していこうと思います。
・なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために
(著:小浜逸郎)
(出版社:洋泉社 新書y)
…です。
咲さんの疑問について、倫理学の方面から考察する一冊です。
内容はちょっと硬めなので、難しく感じるかもしれませんが、
殺人はなぜいけないのか、
では、自殺なら良いのか、
人の生命は尊いものなのか、
このような問いに対する答えの一つを出してくれると思います。
あくまで一つに過ぎませんが、
もしこの問題を考えるなら、読んでみても損はないかと思います。
では、失礼します。
卯月さんからの意見< br/> こんにちわ。夏ばて気味の卯月です。
夏ばてもそこそこに早速本題に入りたいと思います。
・何故、人を殺してはいけないのか。
お堅く言うなら生存権の侵害である。と言ったところでしょうか。
あと、これはどこかで読んだのですが、人を殺すなというルール、法律を破る行為が悪い。
要は暗黙の了解、社会が成立させるためのルールです。
私は貴方を殺しません。だから貴方も私を殺さない。だから私は殺されません。
ある意味当然のルールですね……。
>何故、人を殺してもいいのか。
これは主観になりますが、建前さえあれば殺人行為というのは許容されるものだと考えます。
社会的に許されているから。生きるために必要だから。
前者は死刑制度や事件解決 のための犯人射殺、後者は戦場などが当てはまりますね。
社会的にみれば、時代や場所、状況次第で殺人は許される行為だというのが私の考えです。
個人的な観点から見れば、その人の倫理観次第かと。
どんなに言い繕っても結局はその人が殺人を罪と感じるかどうかで、
許す許さないも個人が決めることだと思います。
なんか蒙昧無知な意見ですみません。
ちなみに、私も暗殺者モドキを書いていますが、
その人物の考え方は『標的にされる方(殺される方)が悪い』です。
それでは、執筆頑張ってください。
南志紀さんからの意見
ようやくプロットの入り口が固まり、喜んでいる南です。
なぜ、人を殺してはいけないのか?
ですね。
結論� �後回しにするとして、
意見の主流となっている『相手の身にもなってみろ』とありますが、南は反対です
例えば自殺願望者は殺してもいいのか?
殺しても誰も悲しまない人は殺してもいいのか?
危険な厨思想ですよね。
では、次に一般的に肯定されている殺人とはそう死刑です。
簡単に言えば凶悪な人間は社会から抹殺せよ、です。
すなわち、殺すに値する人間かどうかが焦点だと思います
行為者が殺人に対して真に納得できているか?
行為者が殺人をするに値する真の理由を持っているのか?
感情的欲求ではなくきちんとした理由があれば殺人も肯定される場合もあるのでは?
もちろん全肯定ではありません。
みつきさんからの意見
咲さま� ��こんにちは。
講演者に挙手して『何故人を殺してはいけないのか』と訊ねた生徒って、
本気でそれを聞きたかったんでしょうかね。
私が子供の頃にも、最近の若者は自分の頭で考えないと散々言われたものですが、
いつの時代も同じよう(笑)。
>『何故、人を殺してはいけないのですか?』
私の場合は、「それが何であれ、人のものは勝手に取ってはいけないから」、とかいう感じで、
人を殺すことの是非というものを捉えているような感じがします。
その人の体も、命も、その人のものですから、勝手に壊したり奪ったりしたら、
それはイケナイコトだよなーっていうふうに。
もしかしたら、他人と自分との境界が曖昧な人ほど、簡単に物を盗むし、簡単に人� ��殺すのかも……?
とか、今思いました。
で、ここから付け足しです。
昔、とあるところで最初の人殺しがあり、その殺人犯は復讐のため被害者の遺族に殺された。
ところが、復讐のために殺人犯を殺した遺族が、殺人犯の遺族にさらに復讐で殺され、
その後復讐が復讐を呼んでエスカレート、男たちは常に武器を持ち戦いに駆り出され、
女や子供はしょっちゅう焼き討ちや皆殺しの憂き目に合うことに。
そんな血で血を洗う人殺し合戦が延々繰り広げられていたのですが、
ある時から、散々それをやってきた人々はもういいかげん疲弊し、
こんなことに何の意味があるのだろうと考え始めてしまい、結局、
「最初にあった、たったひとつの殺人が発端だったんじゃな いか。
こんな何十人、百人も死ぬような復讐のやり合いに、意味はない」
と結論付けた結果、『人を殺してはいけない』という決まりごとを作って、
それを破った殺人者は復讐により殺害されるのではなく、
第三者に公的に法で裁かれ処刑される、という方法に変更。
で、「無意味な復讐合戦になるから人殺しをしちゃダメ」になったのが、
時代を超えて今は倫理に変わった。
経験から得た、一言ではとても言い表せないことだから、
もうとにかく「ダメなものはダメ」ってしておかないと、
また感情的な復讐合戦から学習を始めないといけなくなっちゃって、
今の方法にたどり着くのに時間はかかるわ無駄にたくさん人が死ぬわ、
ほんと後の始末が� ��倒だから……。
ってな感じかなあ、と思いました。
付け足し終わりです。
>『何故、人を殺してもよいのか?』
それが誰かのためになるのなら、仕方ないということはあるかも。
再犯の可能性の高い重犯罪人を死刑にするとか、尊厳死で人工呼吸器を外すとか。
もしくは、自衛のための危険回避でやむなく殺害してしまった、とかいう場合もあるでしょうか。
殺してくれと頼まれたから殺す……というのは、
法的にみれば完璧にアウトですが、心情的には……うーん、やっぱり難しいかも。
と、私が考えるのはそんなところです。
それではこれにて。
Dr.ウニボンさんからの意見
ケータイから失礼します、Dr.ウニボンです。
まぁ、物凄� ��ぶっちゃけて言うと、「子孫繁栄という全生物の命題に反するから」だと思いますね。
地球上の全ての生物は子孫を残すために生きていると言っても過言ではないんですが、
同族を殺すと子孫繁栄が難しくなります。
だからこそ同族同士の争いは大抵殺し合いにまで発展しません。
人間にもその辺の本能があるから、同族殺しを嫌う傾向にあるんだと思います。
んー、これだと質問の答えにはなりませんか……。
ただ、"人殺しはいけない"のでなくて私は"人殺しは気持ち悪い・不快だ"
という感じのほうがより真理に近いような気が……。
gloryさんからの意見
最近このような事を自分でも考えていると、丁度このようなスレがあったので、書いてみました。
・ 殺される側の身にもなってみろ
この意見を見て思ったのですが、殺した側の本人とその家族とその親類の立場になってみてください。
被害者の家族や親類から恨まれるのは殺した本人一人だけならまだいいです。
しかし、必ずしもそうとは限らないでしょう。
それに世間様からも軽蔑の目で見られるようになるかもしれません。
被害者は殺された側の人達だけではないのです。
私が何を言いたいのかというと、全てを自分一人で責任とれるのかということです。